日本の歴史問題のための歴史理解 その2

「アジアのリーダー」という言葉に潜む自己陶酔と自己都合主義
明治期のアジア主義者の一人、岡倉天心はアジアの人々は日本に頼るのではなく、自助努力を積み重ねるべきであるといいました。また、大正期の知識人、吉野作造も日本が文化的リーダーという意味であるならばアジア主義に賛成だと言っています。*

しかるに、日露戦争の勝利を受け、アジアの独立運動家が来日し、各種支援をしているうちに、やがて慢心が芽生え、アジア主義者の中でもアジアを上から目線で見、「日本はアジアのリーダー」という妄想が出てきます。この妄想が2つの点において失敗を招きます。

第一に、日本がアジアに日本式を教育すべきと考え、異文化への理解、尊重が希薄になります。当時の東南アジアを知る人の文章です。「彼等に対しては十分の愛と同情を以て自分の子、できそこなった子ならば、そのできそこなった子を一人前に叩き直す。」**今時流行らない昭和のスポーツ根性的な考え方、あるいはドメスティックバイオレンスを正当化する際の言い訳でしょうか。

いわゆる皇民化政策として、日本語教育や神道崇拝の強要等が思いつくかもしれませんが、もっと身近な人々の記憶に刻まれているのは、日本人にとって異質に思える行為への露骨な侮蔑、異文化ではタブーな行為の方ではないかと思います。例えば、他人の頭を触ること、ましてや平手打ちがタブーという文化の人々に対し、「教育の一環」のように平手打ちし、不必要な摩擦を生みました。また、ムスリム人口の高いインドネシアにおいて、食料問題解決のため豚食を日本側が安易に提案し、スカルノが何とか押しとどめた一幕もありました。***

第二に、アジアを支援するのだからアジアが日本を支援するのは当たり前という考え方です。これには2段階あります。最初は満州国、次に東南アジアです。

満州国を建国するにあたり、石原莞爾は「五族協和」というスローガンを掲げ、満州に住む日本人、韓国民族、満州民族、中華民族、内蒙古族との間で仲良く協力していきましょう、と考えていました。しかし実際には、各官公庁のトップには満州民族を据えたものの、その下には日本人が実務を取り仕切っていました。

加えて、来る対ソ戦のために、満州に国防産業を短期間で育成し、そのための資源配分は日満間で調整するように計画されました。そうした計画経済のような考え方は、当時満鉄にいたロシア・ソ連専門家にして、石原莞爾の経済ブレーン的な役割を果たした宮崎正義によるものです。そして彼を中心に「満州産業開発5年計画」が作られました。そしてこれを実際の形にしたのが、岸信介満州国実業部次長(戦後首相)ら商工省出身の官僚であり、実働部隊が満州重工業(満業)でした。この総裁が日産総帥鮎川義介であり、高碕達之助(戦後国交正常化前に結ばれた日中貿易協定(LT貿易)の日本側代表)です。

この頃岸と入れ違うかのように石原莞爾は参謀本部へ「栄転」しますので、これに合わせて宮崎も東京で日本側の経済計画を立案し、「日満軍需工業拡充計画」となりました。全体の資金総額は85億円強であり、全体でみれば日本を主とし満州はその1/3と概定されました。****

この計画を実施するために、経済の国家統制、即ち「株の配当や目先の利益に囚われて長期的展望を持てない資本家を経営から排除」する形で「資本と経営の分離を強行し、有能な人材をもって統制経済下で企業経営を行う。また金融面では日銀を通じた資金の国家統制を実施し、企業活動をコントロールする。これと並行して貯蓄を奨励し、この国民から集めた資金で低金利政策を堅持し、鉄鋼や自動車産業に投下して産業育成と輸出促進を図っていく。他方、労働者の社会的地位を高めると同時に企業単位に熟練工の企業内育成に努力し、労資協調路線で産業平和に努める。そして、企業活動全体は官僚が指導し、行政指導を通じて産業の発展を促進する。」****

「日本株式会社」の原形ともいうべき社会改造を1930年代後半から終戦まで(準)戦時体制として実現させていきました。(なお、この満州で計画経済の立案・実行に携わった人々が、戦後吉田内閣の下で作られた経済安定本部に結集し、傾斜生産方式等の施策を打ち出しました。その後、同じく満州人脈の岸信介が首相となり、「日本株式会社」が確立していくのですから、戦後日本という新しい器に古い酒が想像以上に色濃く入っています。)そして、この流れに沿う形で、満州の資源や中国人の低賃金労働は日本に利用されていきました。

さて、満州国の場合はまだ計画をそれなりに優秀な人材が練り、効率的ではありましたが、万全な準備がないままに強引に進めていったのが、第二段階の東南アジアです。端的にいえば、兵站軽視で有名な日本軍の現地調達主義です。現地調達といえば聞こえはいいですが、要は現地の食料や資源、場合によっては労働力を購入、あるいは収奪、強制労働させるということです。

結果それまでのヨーロッパの宗主国の経済圏に組み込まれた、プランテーション経済(宗主国が求めるゴム、コーヒー、砂糖等を輸出し、生活物資を輸入する貿易体制)がそれなりに回っていたものが、欧米物資が途絶する一方、日本経済では宗主国が輸出していた物資を十分に供給することができませんでした。加えて日本の求める食料や鉱物資源等を耕作、産出するため、あるいはヨーロッパ軍が退却する際に破壊した工場や鉱山等の復興、鉄道や道路建設(泰緬鉄道はあまりに有名です)のため、労働力のほとんどが奪われました。当然、食料を始めとする品不足が蔓延しました。

これに軍票という追い打ちがあります。軍票という新しい貨幣が現れることにより、モノよりカネが一気に増えるわけですから、インフレーションが当然発生します。それでも日本軍が勝っているうちはまだ価値が認められましたが、日本軍の人気の低下や敗戦が明らかになるほどにその価値は下がり、物資調達に狂奔する日本軍は、価値の裏打ちのない軍票をさらに濫発するという悪循環に陥っていきました。そして終戦を迎えると、この軍票の換金がないままに日本軍は撤収していきます。(但し中国の場合、日中戦争当初から国民党の紙幣が日本軍の軍票よりも評価され続けていました。その理由は蒋介石の妻、宋美齢の一族である浙江財閥がイギリスに支援され、紙幣を十分に裏打ちするだけの信用を持っていたからです****)

これで完全にアジアの民心を失いました。そして、これが「アジア解放」の本当の顔です。

アジア側リーダーの反応
アジアは広範囲でそれぞれ事情は異なります。ベトナムの場合、ドゴール将軍のパリ凱旋により急遽日本軍が入り、ベトナム帝国が作られ、グエン朝皇帝が皇帝となりましたが、日本敗戦と共に退位し、グエン朝は滅亡してしまいました。マラヤ(マレーシア、シンガポール)にはイギリスが労働力として多くのインド人を連行していたことから、マレー人、華僑、インド人の比率が拮抗し、マラヤ単位でまとまれませんでした。但し、華僑は中国大陸との繋がりから、当初から日本軍の迫害対象でしたので、熾烈な抗日運動を展開していました。

ですが、したたかに生きた地域も多くあります。

フィリピンの場合、最初からアメリカへの忠誠を示し、日本に対し最初から反抗的で、ラウレル大統領は日本に強要され仕方なく、米英に「宣戦布告」の閣議決定をするものの、議会に批准を求めず、法的な裏付けをとらないと、最初からアリバイ作りをしていました。

タイは英領ビルマ、フランスの植民地あるいは保護領であったベトナム、ラオス、カンボジアに囲まれ、いわば緩衝地帯としてその独立を保っていました。よって、非常にリアリストの視点から国際情勢を見ていました。そのため、日本が太平洋戦争を始めた当初タイとの同盟を提案します。これを拒否する国力はありませんから、日泰同盟を結ばざるを得ないのですが、疑心暗鬼の眼で見ています。これを承知していた日本は、タイにマラヤ4州、ビルマのケントゥン州を与え、ピブーン首相は対日協力をします。

しかし、日本の劣勢を様々なチャネルを駆使して知り得た首相は、日本との距離をできるだけ作ろうと、1943年の大東亜会議には職を賭してでも出席しないといった反抗心を見せます。それでも、翌年東条内閣退陣を見るや、ピブーンの独裁的手法と対日協力に批判的な人々により失脚させられます。そして敗戦直後に摂政プリーディーの下で対英米宣戦布告は無効と宣言し、「対日協力の見返りとして日本から与えられたマラヤ4州、ビルマのケントゥン州を両国へ返還」**することによって、連合国に日泰同盟はなかったことにしてもらったのでした。

中国、ビルマ、インドネシアの場合、宗主国の警察に追われながら、命がけで活動する独立運動家たちは、非常にリアリストです。よって、日本に支援を要請する場合それはタダではないことを理解した上で、祖国独立という大目的のために日本支援という「毒」を敢えて使うことを厭わない人々です。よって、日本の支援を得つつも、いつその支援がなくなる、あるいは害を及ぼすかを考えながら行動していました。

そのため、彼らは親日と抗日の顔を二つ用意し、日本の力を見極めつつ、親日の顔を見せながら、抗日の準備、行動を起こしていました。すなわち、中国国民党の場合、汪兆銘と蔣介石、ビルマの場合はバ・モウ博士とアウンサン将軍というように。(オランダ政庁から流刑されており、日本軍に救出された経緯からでしょうか、インドネシアのスカルノはどちらも前面に出ていました。)

さて、ここで日本がヨーロッパ宗主国と異なる政策を1つ採っていました。それは現地の若者を組織し、自衛軍を作らせたことです。日本にとっては、人手不足で手薄な東南アジアの占領地域に対する、連合軍が来た時の備えとして取ったやむを得ない措置でしたが、宗主国は反乱の強化につながるリスクから採用しなかった政策でした。これが、敗戦直前の日本軍に跳ね返ってきました。

すなわち、敗戦が迫った頃にビルマでは、抗日運動が展開されます。戦後この実績をベースに宗主国からの独立への政治材料とするために。インドネシアでは、敗戦からわずか数日後イギリス軍(オランダ軍の代理)がインドネシアに上陸する前に独立宣言をしました。

但し、全くドライに使い、使われた関係であったとは必ずしも言い切れません。日本側にも祖国独立のために日々考え、行動するアジア側のリーダーたちと付き合ううちに、共感を覚え、同情的であった人々もいます。ビルマ工作を担当し、アウンサンら独立運動家30名に海南島で軍事訓練を施した南機関の鈴木機関長もその一人です。そんな鈴木機関長へ、機関長が帰国するまで日本軍に反乱しないと、アウンサンは誓ったと言います。また、同じく海南島で軍事訓練を受けた30名の一人であるネウィンは、大統領となった後当時の日本人関係者7名に最高勲章「アウンサンの旗」を授与し、報いました。******

インドネシアの場合でもスカルノ等に同情的であったと言われる前田精(ただし)海軍武官は、敗戦直前に自邸でスカルノ等が独立宣言の文言について白熱の議論を許したと言われています。また、戦後日本名を捨て「インドネシア人」として独立戦争に参加し、戦死した市来竜夫、吉住留五郎や、所属部隊を離脱し、共和国武装勢力に身を投じた千人以上の旧日本兵もいました。特に市来、吉住については、東京にスカルノの筆による慰霊碑が今も立っています。***

中国の場合、事情はもっと複雑です。日中戦争中、単独で国民党は勝てる自信はありません。そこへ、日本政府が「東亜新秩序声明」という名の下に日華防共協定の締結、満州国の承認、日華経済提携、治安回復後2年以内の日本軍の中国撤兵という条件を出してきます。そのため、国民党内の話し合いの結果、国民党ナンバー2である汪兆銘が蒋介石と仲違いしたことにして、日本政府と協議を進めようということになりました。どう転んでも国民党の一部が残れるように、という配慮です。いわば、戦国時代や関ヶ原の戦いの前に武将一家の中で家族が敵味方に分かれ、いずれか勝った方が家を守る、という考え方と同じです。ゆえに、外向けにはそんな協議をしたとは絶対言いませんが。

しかし、自国民から「国賊、売国奴」と未来永劫罵られる覚悟で、背水の陣でやってきた汪兆銘に対し、日本政府は簡単に裏切ります。すなわち、日本軍の中国撤兵の見込みはなく、また中国人による独立した中央政府を認めないという方針を伝えます。*****日本を翻意させるだけの力のない汪兆銘は、甘んじて受けざるを得ず、日本の言われるままに傀儡政権の長となりました。唯一の慰めは、日本の敗戦を見ることなく1944年に名古屋の病院で病没したことでしょうか。

一方、日本の対英米蘭戦開戦の報を受け、日本の敗北を確信する国民党、共産党は新たなステージに入ります。すなわち、アメリカが日本を敗北に追い込むまで、できるだけ体力を温存(武器弾薬等を必要最小限に抑える)し、日本の敗戦後には優秀な旧日本軍の将校を軍事顧問として雇用し、旧日本軍からできるだけ多くの武器を接収し、来る国共内乱で勝利する準備を怠らないということです。事実、蒋介石は日本の敗戦を受けた声明において、「以徳報怨」演説を行い、悪いのは日本の軍部であって日本の一般市民ではないので、報復行為で憎しみの連鎖を築かないよう、中国にいた日本人へ危害を加えないように、と中国人に呼びかけます。蒋介石政権が台湾へ逃れた後でも、いつか大陸への復帰を夢見、日本への期待をかけ、平和条約でも、賠償金を放棄しました。また、周恩来も同様の趣旨で、中国での戦争裁判で旧日本兵に死刑判決を与えませんでしたし、その後の経済協力を期待し、賠償金を放棄し平和条約を締結しました。

よく日本軍は中国大陸での戦闘で負けたことがない、という言葉を聞くことがありますが、所詮戦術で勝っただけであり、戦略では大敗北なのです。

戦中と戦後は繋がっている
日本は敗戦によって呆けていた間、アジア側のリーダーにとり日本時代は独立運動の中の1章に過ぎず、すぐ次の章へとどんどん進んでいきました。そして、日本社会全体が反省する間も、あるいは群盲が象の全体像を理解する間もなく、新しい現代世界に入り、アジアからも、アメリカからも、新たな役割を与えられました。それは居心地の悪い役回りではなかったかもしれません。しかし、それはあくまで国家間の戦略上の話です。戦中に与えてしまったアジアの無辜の民の苦しみを、国家の戦略が癒すにはあまりに大きいのです。

さて、巣鴨プリズンで無罪とされた岸信介は、後に首相となり、フィリピン、インドネシア、ラオス、カンボジア、ベトナム、ビルマと賠償金問題を解決させました。この際、賠償金の大部分は、現金ではなく物納で、5年から10年かけての分割払いでした。すなわち、新生東南アジア諸国でのダムや発電所等の社会インフラ建設プロジェクトの必要物資を、日本製品で「物納」しました。*******日本経済は当時軽工業から重工業へと重点を移し始める時期にあり、日本企業としては、日本政府が支払うわけなのでリスクがなく、かつ新市場への足掛かりともなるわけです。「ひも付き」ともいえますが、その後、政府支出名目は賠償金から政府開発援助に名を変え、ODA外交に繋がっていきます。

大学時代から北一輝、大川周明ら昭和のアジア主義の旗手に心酔し、アジアのリーダーのつもりで日本経済を動かした岸信介。戦後も首相として、戦中のアジアのリーダーを続けたようにも見えます。彼の眼にアジアの無辜の民の苦しみが見えていたのでしょうか?

*吉川由紀枝著 「日本のアジア主義 1868-1945」
**後藤乾一著 「日本の南進と大東亜共栄圏」
***後藤乾一、山崎功著 「スカルノ」
****小林英夫著 「「日本株式会社」を創った男 宮崎正義の生涯」
*****小林英夫著 「日本軍政下のアジア」
******ボ・ミンガウン著 田辺寿夫訳編 「アウンサン将軍と三十人の志士」
*******小林英夫著 「満州と自民党」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?