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防衛費を減らして伝統文化を助成しても意味がありません

以前、三味線に関連する伝統技術が滅びそうだという事で、政府は補助するべきだ!と主張する人が

「政府は防衛費なんか減らして、こういう文化を救うためにお金を使え!」

と主張し、その賛同者が少なくないのを目にした時に私は「こういう“お気持ち原理主義者”からの応援はむしろ現場を荒らすんだよなあ・・・」としみじみと思ったものです。

そもそも、日本における防衛費と伝統文化維持のための予算は全く別の話であり、同列に語れるものではありません・・・お父さんのお給料の範囲内でお父さんのお小遣いを減らして子供の塾代をやりくりする家計の話ではありませんからね。全く馬鹿げた話です。

それはそれとして、

同じ楽器というカテゴリーで・・・例えば、世界中に使う人がいて売れているエレキギター製造販売老舗の「ギブソン社」でも経営は大変なようで、実際に何度か潰れそうになりましたし、様々な伝説を持ったカメラのライカ社も、世界中にユーザがおりますが、何度も会社の存続の危機に陥ったようです。

スイスの機械式高級時計を制作する職人ですら、若い人が激減し、後継者問題があるとか・・・

それらは一見、世界的知名度のあるブランドだから安泰に観えますが、実際にはみな、時代に翻弄されており、その時々の文化トレンドにも影響されます。その流行が追い風になる事もありますし、強い逆風になる事もあります。

三味線のように、ほぼ日本でだけ使われるものでなく、世界中で使われているものですら不安定なのです。古今東西、文化というのはそういうものではないでしょうか。

三味線にまつわる伝統技術を維持したいなら、ただ三味線製造の事だけ考えても意味がありません。まず、三味線の楽しさを社会に広め、認知させ、三味線を弾く人を増やさなければなりません。もしくは、高級趣味として、少量でも安定して高額品が売れるような仕組みづくりをして行かなければなりません。しかしその実現は大変難しく、いくら市場調査し綿密に計画を立てて実行したとしても上手く行くとは限りません。とはいえ最低でもそのような事が必要なのは当然です。

それは防衛費とまるで関係のない問題ですし、防衛費の予算を大きく削って、伝統文化系に大量投入したとしても事態は変わりません。お金を出せば解決出来る簡単な問題ではないのです。困った事に、お金を撒いても助成金ゴロや助成金をもらい慣れている人や会社に吸い取られ、必要としている人々には届かず雲散霧消してしまう事も多いようです。その方が税金の無駄です・・・これは文化事業に限りませんが。

出生率もそうですね。お金をバラまいても、出生率は大幅に増える事は無いでしょう。お金で解決出来る場合は、経済的な理由で躊躇していたのが解決出来そうだからと子供を作るわけで、それは元々子供が欲しいと考えていた人たちです。根本的な問題は、子供はいらないと考える人々の増加です。国が豊かになると出生率が下がるものですし、産んだとしても、一人か二人の子供に資金と手間を投入するようになります。最初から子供は欲しくないと思っている人たちに、お金をあげるから子供を産めと言っても作らないでしょう?「お金の問題だけではない」から難しいのです。

文化も同じで、ある伝統文化の界隈が無くなりそうだという事で、そこにお金を投入しても、その界隈が生み出す文化を社会が必要としないなら、そのお金は目的に役立つ事なく曖昧に消えて行くだけです。文化があって社会があるのではなく、社会があって文化があるのですから。ただ、そのお金が投入された事で多少の延命になる事もありますから、少しでも延命させ、その間になんとかしたいという事なら、それについては多少の効果があるでしょうけども・・・

そもそも、その伝統文化の「中の人」たちは、事態が悪くなる一方なのに手を打たず「また良い時代に戻るさ」とのんびりしていたし、何よりも具体的な後継者育成をして来なかった、というケースが多いのです。社会から取り残され、伝承システムが時代に合わず若い人たちが逃げ出すような状態でも「それが伝統だ、俺たちはそうやって教わった、最近の若いヤツは堪え性が無い」と社会に責任転嫁し、無策のまま放置・・・中の人自身に未来への熱意が無いわけですから、周りの人たちが盛り上げて、その人達にお金を与えても問題は解決しないのではないでしょうか?笛吹けど踊らず、です。

文化というのは、生きている人間と人間の「間」にある人為・人工物の事ですから、人間の精神の清濁両面が立体的に反映されるものであり、それは複雑な立体物です。机上論や理想論の一面のみで成り立っているのではありません。

現代残っている伝統文化とされている物事というのは、過去にあった沢山のものから現代に残ったものですが、それは「良いものだから残った」とは限らないですし、以前は隆盛を誇っていたものが、文化的寿命を迎えて、終焉に向かっているものも出てきます。その全てに博物的な価値は生じますが「実質の集合体である伝統の本流」と合流する程のものは、ほんの一部だけです。

全ての文化的な物事は、そういうものではないでしょうか。

そういう事をしっかりと理解した上で、いろいろな事を考え、行動しなければなりません。それでも世の中に必要とされなくなれば、その文化は寿命なのです。

「お気持ち原理主義」の人々の意見は、社会的には一見良い事を言っている風に観えてしまうので、意外に多くの人々に支持されたりします。

それで、本当に防衛費を削って伝統技術の保存に使った、という事が起こったとします。しかし、そういう声を上げる人たちは「その結果は観ない」事が殆どですから、そこでお金を撒いたらそれで「良い事をした!」と感じてそれでお終い、次の事に興味の対象が変わり、それが繰り返されます。

そういう保護運動そのものが、ビジネスになっている事も多いですし・・・変に助成する事によって、助成金にぶら下がる人々だけが肥え太り、本来支援すべき人々が困窮したり、悪い意味で本来の形式から変わってしまったり・・・という事も良く起こります。

これは、文化系に限らず、いろいろな分野で良く起こる事でもありますよね。

繰り返しになりますが、文化は人為と人工物で出来上がっています。という事は、その本質には美があるとしても、その運営は人間社会という濁流の内での出来事です。その運営を変に美化したり単純化しても意味がありません。

「耳に心地よい善行をぶち上げ煽る人々」は、だいたい現実を悪くします。


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