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私は伝統的とされる日本的な色味も、時代によって変わると考えております

このnoteに何度か書いております通り、私は日本的な色味というのは「わずかな濁りや茶色成分を含む、湿度のある色」と考えております。

これは、私の実際の創作上の経験や、伝統のものや現代日本にある“モノや現象”への観察によるもので、どこかの誰かの意見ではありません。ですので、他の人はそう考えないかも知れませんが・・・

そもそも、色は絶対のものではなく、眼や脳が違えば、見えている色は人によってかなり違うものですし、何かの色を見た残像で、今見ている色は変わってしまうものです。味や香りと似ていますね。色を見るというのも人間の肉体を使う事ですから当然なのですが・・・「人間の感覚に絶対は無い」のです。ですので人間が実際に感じる色は実は曖昧なものです。

「その、色という曖昧なものに、自分は何を乗せて伝えたいのか?」という自らへの問いが、特に現代の手作り品には必要だなあ、と感じる次第です。これは別に言語化されていなくても良いのです。伝統と現代と自分の創作をしっかり観察し、感じた上で、自分のハラにしっかりと収まる、納得するもの、という意味です。

仮に「絶対感覚」がある人がいたとしたら、その人は他の人たちとコミュニケーションが取れなくなるでしょう・・・人間社会のいろいろな物は、錯覚や残像ありきで構築されていますので。

・・・おっと、また前置きが長くなってしまいました。

下記リンク先には、いくつか色に関する話題がありますが、まだ書いていない話題があったと最近気づきました。

それは

「鑑賞で使うものと着て使うものの違い」です。

「身につけるもの以外」の場合「かなり攻めた渋さ・枯淡・派手」も意外にイケます。モノ同士の場合は許容範囲が広いのです。だから、創作的にかなり攻められる・・・ある程度独りよがりに突っ走っても、OKだったりもします。(ただし取り合わせるもの同士の「波長」や「品格」は合ってないとダメですね)

しかし、着るものとなると、そのような「単純な攻め」が成功するとは限りません。衣類単体でのイメージと、実際に着た時のイメージが「モノ同士の取り合わせ以上に変わる」からです。

さらに、最近は「似合わせ」という価値観が以前よりも強くなっています。時代は作り手にとってよりシビアになって来ています。

しかし、昔のもの・・・例えば博物館にある、お姫さまの嫁入り道具のなかの衣類は、着る人間が中心とは言えず、着る人も“モノ”として扱われているところがあるように思います。

「それらの調度品は、親の財力や権力を示す事が主眼で、着る人はそのモノを誇示するための土台とされている感じ」と言って良いかと思います。着る人が“半分モノ扱い”な感じで成り立っている美的価値観と言ったら良いのか・・・そういう価値観が底にあった上での「姫に良くお似合いで・・・」という褒め言葉だと個人的には思っております。似合う・似合わない、ふさわしい・ふさわしくないの価値観が、今とは違うわけです。もちろん工芸品としては、大変に素晴らしいですし「鑑賞物」として観るなら、本当に素晴らしいものです。

なので、博物館にあるようなものを、現代にそのまま再現出来たとしても、衣類として魅力的なものになるかは、また別の話になります。

それらは「布としては大変美しい」。しかし現代基準では「人間が着た状態=着た人込みの審美性は現代ほど考慮されてはいない」という事になります。

ある素晴らしい布を、工芸品の布として観るか、衣類として観るかで、その価値が変わってしまうところがあるわけです。もちろん「布としての美」自体は変わらないのですが・・・

それは、キャンプに行くにあたって繊細で素晴らしい茶盌でお茶を点てて楽しもうとしても、実際にはただ不便なだけだしキャンプの場ではその美しさは発揮されない、というようなものです。茶盌自体の美は変わらないのです。しかし人為や人工物は、それを使う場によって価値が変わってしまう特徴がありますから、それは仕方のない事です。

上に書いたように、令和の現代では和装においても「着る人を美しく見せる」「着る人の気分が上がる」という事が最も重視されるようになりました。ですから昔とは求められるものが変わったわけです。

ですから、伝統系衣類である和装と言えど、そこは現代に合わせた調整が必要となります。

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(以下の文章に行く前に、以下のリンク先の文章を読んでいただくと理解していただきやすいかも知れません・・・)

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(承前)そういう伝統があったからなのか、昔・・・少し前ぐらいは、和装品と工芸品は非常に密接なものとして人々に受け入れられていました。それが産地の機械生産のものでも「和装品は“鑑賞物としての工芸品かつ衣類”」という感覚が自然にあったように思います。洋服でもそういう面はありますが、日本ではその度合が強いのではないかと個人的には思っています。(日本に限らずアジアの染色・染織大国だった地域ではその傾向が強いと思っております)

その傾向は現在も変わりませんが、しかし「衣類に対する意識」が以前とは変わったのです。

分かりやすい例で言うと・・・白洲正子さんが収集した和装品は、工芸品として大変美しく質も高いですが、実際に身に着けた際には、現代の価値観で言えば「着た人の魅力を引き立てるとは限らない」・・・という感じです。

しかし今よりも少し前の時代は「自分が大好きな美しい布を身につけ愛でる喜び」が着物を着る喜びのなかで大きな位置を占めていたわけで、観る人もそれ込みの価値観で観ます。ですので、昔はそれも含めて「似合う似合わない」を判断していたわけですね。

もちろん、令和の今でも、和装ではそれが強くあるのですが「その度合が変わった」「座標軸が移動した」と個人的には感じているので、この記事を書いているというわけです。

ですから、明治以降〜平成ぐらいの「呉服」の多くは、令和の現代視点で観ると「衣類としては少し地味」に感じる事が多いように思います。(←それが良さでもありますが)色味や柄が地味、というのではなく「イメージとしてこもっている感じがする」あるいは「水商売っぽい」(特に染の着物は)のです。

(江戸時代のものはそのような、こもった感じや水商売っぽさはありません)
(もちろん、全てがそうだ、という事ではありません)

しかし、当時の人たちはそう感じていないのですね。そういう雰囲気がむしろ「呉服っぽさ」だった。

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私は普段から「モノに全く夾雑物が全く含まれない、キレイすぎるものは使いにくい」と申しております。(下リンクはその話題です)

もちろん、今でもその考えは変わっておりませんが、

上に書いたように「和装品の審美性の判断を、布として愛でる要素と実際に着て似合うという要素を、同じぐらいの重さでしていた時代」から、日本人の、特に女性自体が外側も内側も実際に変わったというのも、日本の色味、特に衣類系のものが変化した大きな理由と思っております。(和装に限らず)

少し前までは、日本人の感覚的に馴染む、強めの湿度や濁りのある色味の衣類を身に着けて、それで似合っていたのです・・・それがその当時の人々の肌色、プロポーション、顔つき、ヘアスタイル、メイクに合っていたわけですが、平成後期ぐらいから、その全てが変化したように思います。「良い意味での明るさやヌケ感があり、かつ軽薄ではない事」が重視されるようになった感じです。これは彩度を強くするとか、素材感を薄くするという意味ではありません。むしろ「いわゆるニュアンスカラー」は増えましたから・・・(あえてチープさを楽しむ路線はここでは書きません)

ついでに言うと、香り系・・・香水なども、20年ぐらい前から、特にここ7年ぐらいで(2022年時)香りの質がかなり変化して来たと思います。現代は、以前は重厚な香りのものが多かった男性ものであっても繊細で軽やかで、かつ重層的で、時間経過による香りの変化の展開があるものが増えました。

文化の変化は、何かの分野だけが変化するのではなく、その時代の文化全体が連動します。

そうなると、伝統衣類である和装であっても変化する必要が出てきます。

そこで

「以前とは、色に含まれる湿度や濁り成分の質を変える必要がある」

と私は考え、最近は、そのような色味のものを制作する事が増えました。

「和装の色っぽくない感じ・・・今までに無い和装の色・・・ん?でも、むしろより和装の色とも感じる・・・」

というもの。

現状(2022年12月)ではまだ、その変化の過渡期な面もありますから、社会からは理解されない面も沢山あります。

しかし、確実に現代日本に起こっている色・その他の価値観の変化は社会の人々に認識されつつあると思います。

かといって、私の言っているそれは、平成時代の呉服の価値観の一部の、彩度を落とし、素材感を希薄にした「透明感」とか「シュッとした感じ」とは違います。それは平成の終盤に終わっています。

逆に、今後は色味や素材感や文様のダイナミズム、間の活かし方などが重視されると考えております。その上での「ヌケ感」「飛翔感」といったら良いか・・・

事態はなかなか複雑で「これはこういう風にしておけば良い」という事はなく、これは、感覚の話で・・・【表層にある色の下支えをする色味や、素材感、その他情報の明瞭化と、その情報整理の話】と言ったら良いのか・・・

・・・いろいろ試行錯誤しつつ・・・少しずつ、調整して行きながら、新しい時代の和装の色を生み出し、提案して行ければと思っております。


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