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随筆について書く随筆

僕の趣味の一つは、読書だ。
といっても、年間に100冊読むとか、それほどの多読ではない。
昨年は、約30冊を読んだ。1ヶ月に2~3冊とか、そんなものだ。
しかも、殆どが科学や社会にまつわるもので、いわゆるフィクションの小説を読むことは本当に少ない。
だから、僕はネット界隈で見るような「読書家」ではないだろう。
(読書系YouTuberの方は本当にすごいと思う。)

そんな僕だが、たまに随筆を読む。最近読んだのは、寺田寅彦のエッセイ集「科学と科学者のはなし」だ。こちらは、天文学者の池内了さんが編集したものになる。

寺田寅彦のエッセイは、茶碗のお湯や電車の混雑、金平糖など、身近なものに科学を見出し、考察するのが特徴だ。
彼は、物理学だけでなく、文学においても才能のある人物であった。彼がそのようになったきっかけともいえる高校時代のエピソードはとてもおもしろいので、気になった人は是非調べてみてほしい。

ブログ・noteで上げたものなら、京都大学文学部が編纂した「知のたのしみ、学のよろこび」も読んだ。国立大学法人化という嵐の前夜に、京都という地で、のびのびと研究をしていた研究者たちのエッセイだ。詳しい感想はブログの方にあるので、参考までに。

さて、随筆と一言で言ってしまっても、いろいろなものがある。
書店でぶらぶらと探してみれば、哲学者の難解なエッセイから、数学・科学に関するエッセイ、家族の悲喜こもごもについてのエッセイまで、様々な毛色のものがある。(なお、科学や哲学に関するエッセイを読みたい場合、書店の「エッセイ」コーナーを探さないほうが良い。専門の棚を探すべし。)

どのようなジャンルにせよ、僕が好きな随筆には、一定の法則がある。それは、「その時代の空気を感じられるかどうか」である。
時代、という言葉を使ったが、最近書かれたものでも構わない。
文章を眺めてみて、ありありと情景が浮かび、その時代の憂鬱のようなものまでもが感じられる。俗に言う「エモい」というものなのかもしれないが、そんな随筆が僕は好きである。

話はそれるが、文学とはなんのためにあるだろうか。
梶井基次郎の「檸檬」も、夏目漱石の「こころ」も、先に挙げたエッセイ2つも、少なからずヒトの揺れ動く心が現れている。(寺田寅彦のエッセイは科学色が強いが)
それらを読んだからといって、究極のエコカーができるわけでもなく、夢のエネルギーを発明できるわけでもない。つまり、すぐには役に立たない。
我ら人類がこのようなものを作り出すのは、ヒトがヒトであるゆえに、割り切れない悩みへの答えをどうにかして導こうとするからである。
そして、それを読んだ人々は、時代や場所を超え、共通する悩みに共感したり、新しい視点を得たりして、自分の栄養としていくのである。

「知のたのしみ、学のよろこび」で挙げた国立大学法人化は良い例かもしれないが、少なくとも我が国において、「すぐに役に立つもの」が重視されつつある状況に不安を覚えている。
確かに、「役に立たないもの」を捨ててしまっても、人類は進歩できるのかもしれない。
それに、残念ながら、「なぜ文学を読んで、自分の栄養にする必要があるのか」という問いに対して、僕はあまり良い感じの答えを言うことができない。
しかし、なにか大切なものが抜け落ちてしまうような、そのような危機感を抱いてしまうのは僕だけだろうか。

そういうわけで、たとえ、世の中がもっと実用重視になったとしても、僕は文学だの随筆だのを手放すことはないだろう。

(ちなみに、文学でさえも「ビジネスで有利になるための話のネタ(ファスト教養的なアレ)」として扱われるようになっている。とはいえ、きっかけがそういうものでも、全く触れられないよりはマシなのかもしれない。)

「13月の金曜日」2022年度の最終回は随筆と文学についてでした。