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浅薄の歯車

他人を散々泣かせて、それでも私は私が苦しいと言う権利があるのだろうか。

5時に起きる。
スープを飲んで、7時まで本を読んだ。
宇野千代、小林秀雄、太宰治、という一貫性のない読書をするが、私の読書はこういうものだ。

一つの題材をずっと読むのが苦手なのだ。
だから長編小説なんてとても読めない。
『戦争と平和』がズラリと並んでいるのを見ただけで卒倒しそうになる。
ロシア文学には明るくない。
ロシア語やらロシア文化等は大学の頃に履修していたが、もう忘れてしまった。(外国語系統の大学ではない)

同じ演劇サークルの会長をしていた男子学生と私の2人だけが3年になってもロシア語を履修していた。
ロシア語を上級まで履修する変わり者が2人だけという状態だということだ。(他の学生は大凡英語を上級まで取ってTOEICなどに備えるものだった。)
その男子学生とは演劇込みで仲は良かったが、そいつが毎度授業でチェーホフばかりやりたがることには、うんざりしていたという記憶だけが残っている。

そもそも西洋文学に明るくない。
ただ、実家から何冊か本を持ってきてもらった時にランボーの詩集が混ざっていて、まるで記憶がないが、一応は読んでいたらしい。

さて、8時、珈琲を飲む。
身内の作家に送るための批評と随想の個人同人誌の下書きをノートにべらべらと書いていた。
その時だけ、私は充足しているし、神経性の胃痛や腹痛も落ち着いている。

机を離れると伏せて苦しみ悶える。
こんなに宿命染みている容態であるのなら、この一文字に分かりやすい価値を与えてくれはしないか。

一銭にでもなるようなモノを書ければいいだろうに、私と来たら、何も書けない。

詩は時々書くだろう。
批評を書いている時、私は詩が書けないのだ。

これは、私の読解の無さかもしれぬが、小林秀雄の初期小説の輪郭のボヤけ方を思うと、あれだけの芸術家に囲まれていれば小林だって、詩や小説の類を書きたかったのでは無いか。

しかし、彼は日本の知の巨人として導かれ、苦心の一筆にて生活をしていた。

本当は書きたかったのでは無いか?
本物に、才能に触れてしまった故に、本物を、才能を視る審美眼の所為で、描きたいことに、筆が追いつかないことが分かってしまったのではないか。

視え過ぎるということの、苦しさは、誰にも分からないだろう。

一端の小娘に何がわかる。知った口を叩くな、もう黙っていろ。
お前の意見など、どれほどの価値があったものか。

そうです。私は浅薄な、思想を持たぬ、意志薄弱の歯車です。人との言葉のように聞こえる此れは、私の軋みでしかございません。
もう錆びれてしまいました。貴方様のような強い思想で押されれば、とうとう曲がってはずされてしまいます。

明日はカウンセリングを受けに行く。
途端、胃も腸も騒ぎ出した。別段医者が怖いわけではない。結論を出せない自分が厭なのだ。

努力、努力、愛想、愛想、忖度、忖度、の答がセクハラとパワハラと仕事の丸投げ、都合のいい人材認定、不機嫌な同僚の愚痴聞き、そこが行き着く果てだった。

もう頑張れなかった。もう勤めないで生活する術を身につけなきゃいけない。しかし、私には個人事業主は向いていない。起業してまでやりたい事はない。農業にも向いていない。設備投資やら災害やらを考えると、とてもじゃないが手をつけられない。

山暮らし、私は虫が苦手だ。ネズミも苦手だ。

スキル、社会人に必要なもの、大凡。残念、持ち得ている。

あとは気力に自律神経さえ大人しくしてくれればいいのだ。明日の心療内科でものを話すことさえ、胃痛の種になる。夕飯は喉を通らなかった。

目の前に人間がいるだけで、もともと分からない本音が更にわからなくなる。求める答えならいくらでも言える。前にも書いたが、社会生活を送る事は出来る。ただ、私の本音がどんどん遠退き、体が動かず、腹痛に悩まされて漸く何かを思っている事に気がつく。

自分のことすら私は上手く欺けるのだ。
そんな人間のことを他人が理解出来るわけが無い。

もう何処にも本音は見つからない。何も生み出すことも出来ない。悲壮な文ばかり書いても、同情も叱咤も全ていらない。

他人から欲しいものなど何も無い。
私は何も持っていないから、せめて他人を困らせたくは無かった。しかし、私のこうした生き方で誰かが泣くのだ。

生み出したのは他人の不幸だ。
明日、審判が下るのか、執行するのか、私はいよいよ、私の息の根を止めるため、おんぼろ刀を抜かねばならないのか。

幼稚園の頃に聞いた園長の言葉が今でも呪詛のように肩に伸し掛かる。

曰く、

『頑張れば、なんでも出来る』

復唱させられた記憶がある。

『頑張れば、なんでも出来る』

『頑張れば、なんでも出来る』

先生、それは正しかった。
頑張りました、なんでも出来ました。

なんでも、出来ました。

もう貴方は生きてはいないでしょう。
名前すら忘れてしまいましたから。
交流などありませんでしたから。
私も歳をとりましたから。

仏教系統の幼稚園だったから、和尚様だったかもしれない。

残念、私たちが手を合わせていたのは、仏、菩薩であった。その前に立って何かを声高に話すあなたが邪魔でした。あなたの影が、菩薩の後光を閉ざした。

要らぬ言葉により、衆生済度は閉ざされた。

和尚様、貴方は極楽へ参りましたか。
貴方は正しかったし、正しいことをして、正しく園児を送り出し続ける、正しい人として最期まで自分は正しいと信じて仕合わせに、亡くなったでしょうね。(知る由もございませんが)

私は、今、貴方の言葉が念仏のように耳に残り続けた結果、蜘蛛の糸を握り損ね、未だに地獄におります。

いいえ、和尚様、貴方の所為ではありません。
一重に私の弱さの所為でございます。
貴方が極楽におられることを憎んではおりません。

私は憎まれる人間であり、憎むことは許されぬ人間です。貴方の後ろに立たれていた菩薩様に面目が立ちません。

私は他人を泣かせました。
私に似合いの地獄を歩いております。

果たして、私に、拝む資格などありましょうか。
果たして、私に、救済を求める資格などありましょうか。

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