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ナイス害「フラッシュバックに勝つる」について

わたくし事ですが、秋の終わりに足底筋膜炎になった。

仰々しい病名がついているが、とりあえず足の裏が痛いのである。足の裏、というのが非常にやっかいで寝起きなど歩くのもままならない。微妙なかんじで常に痛い。
こういった怪我でも病気でも、とりあえずかかりつけの病院に向かい、正しく処置について説明を受け、必要であれば薬を処方してもらうのが一般的な治療法である。ただ、わたしは病院が嫌いである。大抵「なにか心当たりはありますか」と問われる。これがもうイヤ。過去を振り返ることは避けてきたのに、日頃の不摂生だとか運動不足だとかを自己申告して病名を貰って帰る頃には自己嫌悪でいっぱいである。それでも、過去を通らねばわれわれは未来に向かえない。時間は前に進むのみである。

以下歌評です。
…歌評というには、あんまりにもまとまりがないので、頭の中のメモ帳をそのまま。


来世ではこの市役所のペンとなりみんなの名前になって生きたい(ナイス害)


市役所のペンから名前は生まれる、という気付き。「この市役所」の「この」から読み手が想像する「市役所」に具体性が生まれる。具体的になると、より自分に近づいてくる。


おっとっと形を見ずに食べている 自分に似てる奴もいるのに(ナイス害)


似てる奴、きっと喰ってる。あんまりかわいそうじゃないか、と思う。それは自分に似てるからあんまりにも切ない。此れが「あなた」とかだとこの哀愁は出てこないよな。それとも「自分に似てるやつ、喰ってるぜあいつ」的な視点。それもちょっと怖い。どうか「おまえに似てるな」って言ってほしい。


笑いながらフェラチオしてる君の目にうつるすべてを忘れたくない(ナイス害)


(もしかしたら、主体はアダルトビデオなど見てるのかもしれない、と思ったけれど、その読みだとちょっともの足らないので、あえて主体を「フェラチオの受け手」として考える)
「君の目にうつるすべて」はどんな景色だ。フェラチオされている、この歌の主体の姿じゃないのか。「ぼくを見ているきみを見ているぼく」という状態の瞳の奥だ。混ざり合えない二対の人間を切り取る。エロティシズムと共に訪れる愛。


元カノが銀杏BOYZのPVに出てて連絡とりようがない(ナイス害)


「どうしようもない」感および渾身の一発芸感。もしファミレスで友達にこの話をされたら、かける言葉が見つからない。

害さんの短歌は広いところにあるイメージで読む。寂寥の空間ではなくて、子供が遊ぶカラフルな遊具がある公園やぎらぎらの街灯に照らされた公道。そこに降りてくる天啓を、自分達はあんまりにも簡単に見逃しているんじゃないか。


いつの日かあなたを許す正体が謎の光でありますように(ナイス害)

あぬえぬえ 歌はお前の餌だから次の歌人のところへ行きな(ナイス害)


害さんの「フラッシュバックに勝つる」を読んで思ったのは「ああ、短歌を知らない人に読んで欲しい」ということだった。それは害さんの短歌が「心の遊び」として軽やかだったからだ。短歌を知らない場所にいる人に、この歌が届いたら、きっともっといろんな短歌が増えるだろう。短歌は、きっとこれから、もっと、誰のものでもなくなっていくという予感がある。本を読まない人、短歌を知らない人、そういう人たちのものになっていくのだろう。

31文字あれば、誰にだって短歌は作れる。「これは短歌なのだろうか」という彷徨いを捨てて言葉を選べ。命を削って作る短歌じゃなくても、自分の心にひたむきに、自分が美しいと思ったものをじっと見つめて、その形が崩れてしまって思わず笑いだしてしまうまで、自分の頭の宇宙にキーを合わせていく。そうして新しい宇宙が誰かの宇宙と交信する。混沌の世界に降るオーロラの切れ端として、いくつもの短歌がこの世を生きている。そう、短歌は強いぞ。フラッシュバックにさえ勝てる未来を作り出せる。


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