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ある日、切れて 3

           *

「俺が、半ホームレスなのは、風呂のない生活だけは、耐えられなかったからだよ。やっぱり人間は、顔や歯を綺麗にしたり、風呂に入ったりするからこそ、人間なんだと思うんだよ」
 次の日。男は章についてこい、と言う。久しぶりに朝日を浴びながら、歩いている。大通りの方で、通勤しているサラリーマンの姿が見えた。章は、男について歩きながら、それを横目で見ている。スーツなんて、どのくらい着ていないだろう。初めて入社した時、ネクタイやスーツが、なんとなく誇らしかったのを思い出した。
「あとね、金もいるからさ」
「空き缶を集めたりとか」
「まあ、いろんなやり方があるよね。それも悪くはないけど」
 しばらく歩いて、とある集合住宅に辿り着く。一階の奥の部屋を男は指さした。
「あそこのお宅で、これから家事や掃除をする」
「えっ」
「大丈夫。見た目は怖いけど、性格はまあまあだから」
 男の台詞が微妙なのは、そのドアをノックした後にわかった。ドアの向こうから、ひどくいかつい顔の老人が姿を見せた。男は、やはり人懐こい笑顔で、頭を下げる。
「今日は、連れがいますが、いつも通りで大丈夫ですので」
「そいつは、お前のアレか」
「いえいえ。違います。まあ、新入りみたいなもんです」
 むっつりとした顔で章を睨みつけた後「ふん」と鼻息を荒く立てた。
「わけえの。ホモといたら、いつかケツ掘られるぞ」
 章はその言葉にぎょっとする。男は相変わらずニコニコと笑って「そんなことはしませんよ」と言う。
 二人で部屋に上がる際に、章は不安と憤りの混ざった視線を男に送った。いくらなんでも、あんなことを言うなんてひどい。男は、背後からそんな視線を送る章にすぐ気が付いた。そして小さな声だったが「大丈夫だよ」と言った。
「先に、風呂借ります」
 ちょっと風呂に入ってくると言い残して、男は浴室に向かう。章は困惑したまま立ち尽くしている。老人の部屋は、二間で、恐らく一人暮らしだった。奥の部屋には、敷きっぱなしの布団がある。決して綺麗だとは言えない部屋だったが、テーブルの上に読みかけの小説があるなど、どこか「きちん」としていた。
 章は、老人と目が合ったが、思わず目をそらしてしまう。左の小指がないことに、気が付いてしまった。
「おい」
「は、はい」
「台所、片付けてくれよ」
「は、はい」
 章は言われるまま、シンクに向かう。そして、溜め込んでいる食器を洗い始める。
「それが終わったら、冷蔵庫も掃除してくれよ」
「はい」
 困惑したが、とりあえずやるしかない。食器を洗い終えた後、冷蔵庫の中の食糧を外に出す。ちょうどその頃、男が浴室から出てくる。さっぱりとした、すがすがしい顔になっている。髭も無くなっている。その顔を見て、ひょっとしたら、この男は、思ったより若いのかもしれないと、章は秘かに思った。
「早速やってるんだね」
「おい。お前は新聞をまとめてくれ」
 老人は慣れているのか、二人にあれこれと指図をする。雑然とした家の中は、二時間ほどかけて、整えられた。老人は人使いが荒く、章は途中から疲れてしまい、少し息切れをした。
「情けねぇな」
 老人は、章を見て鼻で笑う。それがなんだか、ひどく悔しい。しかし、帰り際に「俺は甘いのが嫌いだから」と缶コーヒーを章にくれた。
「いつもより片付いたから、少しおまけしてやるよ」
 老人は、男の手に千円札を三枚置く。
「ありがとうございます」
 深々と男が頭を下げたので、章も慌てて頭を下げる。老人は章を軽く睨んで、ドアを閉めた。
 特に目立った会話もなく、掃除と片付けをして三千円。これが高いのか安いのか、章には判断がつかない。男はポケットに三千円を折りたたんでからしまう。
「これで、食料も少し買える。風呂に入ったから、少し怪しさも半減したし」
 男が言った半ホームレスの意味が、かなり理解できた。ゴミを漁る生き方ではなく、ある程度、社会と共存している。
「携帯も、充電できたし助かったよ」
「新しい生き方ですよね」
「憧れるかい?」
「はい」
 即答した章に、男はやや驚いたのか、目を大きく見開いた。けれど、男はしばらく黙ったままだった。また道を歩きながら、章は気づく。そういえば、この男は、何も聞いてこない。そして章も、男のことをよく知らないままだ。名前も年齢も、なぜ、こんな生活をしているのかも。
 労働をしたせいか、ひどく腹が減った。足取りが重くなった章に気が付いたのか「何か食べようか」と男が提案した。
「あの人、人使いが荒いからね」
「いつも、あんな感じなんですか」
「今日は、機嫌が良かった方だよ。イライラしている時は、物を投げてくるし。けど、終わったら必ず現金は渡してくれるからね。少々の嫌な思いは、我慢するよ」
「でもそれだと、会社員と同じですね」
「はは。そうだね」
「それは、なんか嫌だな」
「あの人、そんなに長くないんだよ。余命宣告を受けててね」
 章は驚いて、思わず足を止めた。
「破天荒な生き方をして、周りの人間も離れていったみたいでね。金はまあまああるみたいだけど、孤独だから、俺みたいな人間を家に上げてくれるってわけ」
 章は、なんと言葉を返したらいいのかわからない。ただ、「俺は甘いのが嫌いだから」と、缶コーヒーを渡した時の老人の顔が浮かんだ。
「ゲイなのを、バカにされるのはしょっちゅうだけど、寂しさが共鳴するのか、なんとなく続いてる。ある意味、お互いに依存してるんだと思う。でも、それが絶対に悪いわけでもないよね」
 立ち尽くしたままの章に、男は「行こうか」と促した。
「今日は、いい天気だね。空があんなに高い」
 促されて見上げた秋の空は、確かに澄み切っていた。
 胸の奥が、なんだかひりひりと痛む。この痛みの根源は、職場が雑居ビルの四階だったせいだ。あそこで終わっていれば、知らない誰かの命が、いずれ終わるという悲しさも、感じなくて済んだはずだ。
 章はなんとなく、この悲しさを自分が感じてはいけないと、思ってしまう。あの日、飛び降りた自分が感じるのは、なんだか間違っているような気がした。

<4に続く>

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