少し先を歩いている主婦らしき女性のバッグから、財布が落ちた。主婦は気がついていない。悠太は、逡巡したままその財布を眺める。 (どうしよう) いや、どうしようじゃないだろう、と、もう一人の自分が突っ込みを入れる。悠太は慌てて財布を掴んで叫んだ。 「あのっ!」 主婦は、びくりと体を震わせて振り返った。その様子に、声が大きすぎたと、ひどく反省をした。相手は不審者を見るような目だ。 「財布を、落とした……ようです、が」 「あ、あらっ」 主婦は自分のバッグを見た後、慌てて悠太
「人間の価値って、どうやって決まると思う?」 坂本悠太が、タリーズコーヒーでアイスコーヒーを飲んでいると、後ろからそんな台詞が聞こえてきた。悠太はその時、スマホで求人サイトを眺めていたが、つい、体を固くしてしまった。 「そりゃあ、やっぱり、どれだけ善いことをしたか、なんじゃない?」 悠太の後ろで、そんな会話が続く。女性二人組の、その会話から意識を離したくなって、悠太はわざと音を立てて、ストローでアイスコーヒーの残りをすすった。 求人サイトを目で追っていたが、集中力がなく
「気を悪くしたら、ごめん」 「……いえ。別に不思議じゃないですし」 章は自嘲気味に笑う。 遠くで、通学中の子供たちの声が聞こえる。昨日見たアニメの話。誰かが見つけた綺麗な小石の話。毎日の中にある、くだらないけど、楽しいものを語る言葉だ。 「この生活をする前に、俺にも恋人がいてだね」 男は、ぼそりと呟く。 「男の?」 「そりゃあ、そうだ。ゲイだもん。年下だったんだけど、頑固な人でね。真面目で、なんでもコツコツ頑張る人だった。そんなんだから仕事もできて……それで会社で虐めら
* 「……そんなことまで、やってるんですか?」 男が今、口にした言葉に、章は信じられないような思いで小さく叫んだ。男は、相変わらず、無邪気に笑う。 「わりと、面白いよ」 章は、眩暈を覚えそうになった。いつもより食事が少ないせいかもしれないが、男は、章の予想を超えたところにいる。 「スマホはなんとなくわかりますが……アフェリエイト? 広告収入? それすでに、ホームレスじゃなくて、ノマドワーカーじゃないですか」 「定職がないから、結構、暇な時間が多いんだよ」
* 「俺が、半ホームレスなのは、風呂のない生活だけは、耐えられなかったからだよ。やっぱり人間は、顔や歯を綺麗にしたり、風呂に入ったりするからこそ、人間なんだと思うんだよ」 次の日。男は章についてこい、と言う。久しぶりに朝日を浴びながら、歩いている。大通りの方で、通勤しているサラリーマンの姿が見えた。章は、男について歩きながら、それを横目で見ている。スーツなんて、どのくらい着ていないだろう。初めて入社した時、ネクタイやスーツが、なんとなく誇らしかったの
「お腹すいてる?」 章は頷く。すると男は、立ち上がって「こっちにおいで」と歩いていく。その背中について歩く。公園の隣には、神社があった。無人のさびれた神社で、男は拝殿の裏に入っていく。章は、戸惑いながらも、その背中についていった。毛布やペットボトルなどがあり、ホームレスの男は、ここで寝泊まりをしているようだった。 「ここが、住まいなんですか」 章は男の隣に腰掛けて、そんな質問をする。 「ここは二、三日の間だけかな。こんなところはすぐに注意されるからね。むしろ街の中の方が、
田中章は、会社でミスをした。 クレーム処理に追われ、取引先の担当に何度も頭を下げて、青い顔で帰社したが、今度は上司へ説明をしなくてはならない。 部長は気が短いうえに、元々口の悪い男で、しばらくの間、唇を噛んだまま、部長の罵倒を聞いていた。自分を否定する言葉に「おっしゃる通りです」と頷いた時、息の仕方を忘れていた。 部長の文句を聞いている間、頭の奥で、何かが崩壊した。「ああ、もう駄目だな」と思った時、章は叫んで、会社の窓に向かって走り、そのまま窓からダイブした。 その
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