学び方・学ばせ方。

夏休み延長について、各メディア様々な表現があるが…

愛知県豊田市で公園での校外学習から戻った小学1年の男児が熱中症とみられる症状で亡くなることがあり、文部科学省が都道府県教育委員会へ同様の事故の再発を防ぐべし。と出した通知。
文科省ホームページには通知原文が載った記事は無さそうだなあ。

各メディアでの表現は『文部科学省が、子どもの熱中症による事故防止対策として、夏休み期間の登校の調整や期間延長、臨時休業日等を検討するよう都道府県教育委員会へ通知』だいたいこんな感じ。
一部、『対象は公立の幼稚園、小中学、高校。』のような記載も。
うーん。対処例ばかりフィーチャーされてる感が否めないんだよなあ。

自分が思う通知内容は『熱中症による事故防止対策の検討を求める。(対処例を挙げるならば)夏休み期間の登校の調整や期間延長、臨時休業日等(であり、授業日数等については個々の状況により個別対応を取って頂きたい。)』のような感じだったんじゃないかなあと。
そんな変わらないけどね。

集まることで/集まらないことで、得られるものってなんだろう。

学校含め社会全体として、実際に【居ること】前提で語られる事について、現代にマッチしていないと思う。サマータイムしかり。

ただ学校に行っただけでは学力なり素養は得られないし、行ったとしても全ての科目学習したことが、これからの人生のうえで活用出来るとも限らない。

選択肢が選べるなら、沢山合ったほうが満足感あるよね?
「集まるのなんて無意味で非効率、全部リモートでいいじゃん」独りよがりの単純無責任な意見ではなくて、効率とか状況が必要と思うときは、その場所にみんなで集まればいいんじゃないかな。逆も同様。

自分で決められるって結構大きい。
後々「自分は押し付けられてこういう人生になったんだ」なんて悩むことも少なくなるんじゃないだろうか。
こう言っちゃなんだけど、後悔してもあきらめがつく。笑
そこから別の選択肢を選べれば。

集まることで・集まらないことで、得られるものって?

ITを活用してリモート学習(中継、動画、学習ツール)とか、登下校時間が長いのが危険ならサテライト的な学校もあってもいい。

もはや「学校」という名前に縛られて、校庭が必要とか、設備がとか、人員が。とか言うのなら、人の生き方に合わないハコは不要だよなあ。

冒険活劇系の漫画でよく見る展開で、仲間が修行の為それぞれの場所に赴いて経験を積んで、次会うときはちょっと見違える!みたいな?

色んな場所で学べるようになると、同じような仕組みの例題を解きまくる、強化学習的な教育方法は合わなくなってくるのかな。
物事の基本とか哲学みたいなところに行き着くんだろうね。

余談だけど。

風邪だったかな。
なんらかの理由によって体育が出来ないことが子供のときあったんだけど、そのときの『見学』って、そこに居て、それを見て、学んだことってなんだったんだろう。

今思えば、その時間を読書に費やしたかった。

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