土砂降りの雨と自由

【土砂降りの雨と自由】

今日の現場は、土砂降りの雨だった。
9時に門を開けると、片道1時間以上かけて通ってくる、小学6年生の男の子がいた。

たき火を1から自分でつけて火の面倒を見るのが彼のここでの好きな過ごし方。今日は土砂降りの雨の中、雨漏りする屋根の下で、ほぼ2人きりでたき火を始めた。

薪が湿っていてなかなか火がつかない。
着火してもいつもより煙が出てきて目に沁みる。

廃材置き場から濡れてない薪をもってきて彼にパスをする。慣れた手つきで斧で薪を割り、くべる。
一気に煙はなくなり、炎が高く舞い上がる。

「カップラーメンでも食べたい気分だな、今日昼何もってきた?」と聞くと、「きょうも先週と同じ生姜焼き。」
「え、俺も先週と同じそぼろご飯」
先週の土曜日も、彼は生姜焼きで僕はそぼろご飯。
どうでもいい会話だけど、僕らでしか交わせない会話でもある。

「そういえば、俺スプーン作りたいんだよね。」と彼が言う。
いいね、やろう。
先週は僕が使っていたナイフに興味をもっていた。
雨漏りする屋根の下で、彼はスプーン、僕はフォーク作りが始まった。

たまに、薪をくべては、黙って木を削る。
土砂降りの雨の音に、薪の爆ぜる音が混ざっていく。
時折、ナイフワークを少し教える。
「こうやるとここはやりやすいかもね」「うん」
会話はそれっきり、後は黙々と。
言葉を交わさないことがこんなにも心地いい時間はない。

一斗缶満杯にいれた薪を燃やし切り、僕らは屋根のある場所に移動し、お昼を挟んで削り続けた。スプーンは何とか形になった。
フォークは折れてしまった。
次は箸をつくりたいと彼は言って、なかなかに太い箸を作った。「次はまたもう1本スプーンを作りたいな」「帰るわ」と言って帰っていった。





僕も最近スプーンづくりにハマっていて、道具を”自由に使える”こととはどういうことかを考えている。
私が道具を支配し、自由に使うこと、ではない自由。
私と道具との関係において”お互いが自由になっていく”という自由。
私も道具もお互いに自由に動ける関係。関係が自由になる。

道具がどうするとどう動くか、そこに合わせて自分の身体はどう動いたらいいのか、その関係がわかることが、”自由に使える”ことの意味なのだと思う。
そうなってくると、道具も自分も傷つかずに、お互いのよさが出てくる。自分なりの関わり方が生まれてくる。

遊ぶことは、「やりたいことをやる」ことだとはよく言われる。
今日の彼は、ナイフを自由に使ったというよりは、ナイフとの関係において、”少し自由になった”のではないか。

そう考えると、遊ぶことは、遊び相手との関係が自由になっていくことで「やりたいことが見えてくる」過程ともいえるなあと思った。

まとまりがない。眠くなったからこの辺にしよう。


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