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単身赴任ママのマイルール

社会人大学院を2年で卒業する。

これが単身赴任をしながら、社会人大学院に入学する時に自分で決めたルールだ。

毎週金曜日、職場がある東京から京都の実家に帰省し、実家にいる娘を連れて大阪の自宅に戻ってくる。一方、沖縄で単身赴任をしている旦那も大阪の自宅に帰ってくる。そんな落ち着かない暮らしを送る我が家には、ママが社会人大学院に通うなんて、あまりに贅沢なことだった。

だからといって、娘の習い事はやめさせない。それも自分で決めたルールだ。

当時の娘の習い事は、幼児教室、ヤマハ音楽学院、バレエ、プール。幼稚園児の子供にしては多いほう。母が単身赴任だからといって、娘の生活を変えてはいけない、そう思った。

習い事は運良く基本土日に集中していた。まだ小さいので親子で参加するレッスンが多く、毎週、娘の成長を実感できた。幼児教室では素晴らしい先生と出会い、ヤマハでは大切なお友達に出会った。



社会人大学院を2年で卒業する。

大学院では3ヶ月を1タームとして履修していく。持ち込み単位がほぼなかった私は、毎度3科目履修が必須の身の上。金土日は帰省するため、残りの月火水木の夜、2週間ごとに3日授業に通う。残りの平日、夜や早朝、帰省の新幹線の中、土日の夜。仕事の業務時間や娘の習い事の送迎以外は、基本全て勉強に充てた。四十をこえた年齢には、なかなかのハードワーク。でも自分で決めたんだから、あとはやるのみ。

時間とは無残なもので…。

今やみる影は一ミリもないが、学生時代は陸上競技部のスプリンターとして、地元で少し有名な選手だった。中学から大学までの10年間、厳しい練習にも耐え抜き、根性だけには自信を持っていた。

逆にいえば根性にしか自信がないともいう。

まわりの大学院の友達が、「この講師がいいよ、有名な先生なんだよ」と履修科目を選んでいるのを横目に、私は全て曜日で決めた。

なにせ私は週4日の女なのだから。

(私が教えていただいた先生方はみなさん素晴らしいかったことは付け加えておく)


3科目履修はやっぱりハードだ。

予習に少なくとも1科目5時間~7時間、レポートになると24時間かかる教科もあった。もともと頭は良いほうではないので、さらに人よりも理解に時間がかかる。授業ごとに課題図書もたんまりあり、空き時間を見つけてはページをせっせとめくった。

結局のところ睡眠時間を削るしかないのだが、そのせいで数々のケガに悩まされることになる。



ケガによる、さらなる試練の始まり。

娘の幼稚園の授業参観で不覚にも、大ケガをしてしまったのだ。よく子供の運動会で張り切っちゃったパパが転げてしまって…というエピソードの、いわゆるあれだ。

娘たちの勇姿をみて、思わずアドレナリンが噴出してしまったおっちょこちょいの私。今思えば、やめときゃいいとに、お世話になった先生におだてられ、予告なしではじまったパパママリレーに、年がいもなく参加してしまったのだ。

昔取った杵柄。走ってしまうと、自制心がきなくなることはわかっていた。

小さい頃から運動会といったら、自分の見せ場中の見せ場だった。クラス対抗リレーでは1走とアンカーを担当。アンカーで9クラス中最後で貰ったタスキを7割ほどの走力で、1番でゴールテープを切ってきた。その時の歓声を味わって、大人になった私は、もう自分を止められない。

前を走っている10歳は年下だろうパパたちを「軽く抜かせる」という昔つちかった自信がムクムクとよみがえり、一周200メートルの小さな小さな園庭をあろうことか全力で走ろうとてしまったのだ。

恐ろしいくらいの急カーブの直前。「やばい」と正気に戻ったものの、時すでに遅し。「ブチッ」と鈍い音とともに、右足の感覚がなくなった。

あーあ、やってしまった。やってしまったよ。

肉離れ?アキレス腱が切れた?

ここもまた昔取った杵柄。頭のなかはパニックしているのに、涼しい顔ですーっと走り流し、なにごともないかのように次の走者にバトンを繋いだ。もちろん足の感覚は、ない。誰にも気付かれないように、そっと座り込んだ。

それから誰にも伝えることなく、何とか帰宅し、病院に駆け込む。

靭帯断裂。

その日以降、私は半年間ギブス&松葉杖生活を送ることになる。

私には途方に暮れているひまはなかった。

スーツケースをリュックサックに変えて、松葉杖をつきながら、また毎週東京から京都、大阪に帰省を続けることになる。

どうなる私、どうなる我が家。

そして大学院には、職場からタクシーで通うはめになった…


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