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紅白の雫

紅白の雫(一)
 埃っぽい街で私は一人で歩いていた。すれ違う人々のカラフルな服装と甲高い笑い声がまるで南国の鳥のようで、静かに様子を楽しみながら冬空の下で私は白いため息をついた。今年はそれでも、暖かい。私は近所のスーパーで購入した安物の洋服に口紅だけをつけた顔に少し幼児体型の身体を持てあましながら、自分自身の姿のみすぼらしさに、背中を心持ち曲げる。余計に年を取った気分だ。そうなのだ、最近になって、自分の年を実感することが多くなってきた。それは逆に、内面の充実を意味するのだが、どこか侘しい。
 孤独だ、淋しいとつぶやいた所で、それらが解消される訳ではないし、何か楽しいことを考えようと思い直せるものだ、という変な自信が出来つつあって、それが一人でいることに慣れてしまった者の、悲しいかな現実でもあるので、ただただ、【こんなことが出来るようになりたくなかった】と、空しさがこみあげてくるので、まったくもって、どうどうめぐりもはなはだしい。一人でいることに慣れることの侘しさ。街路樹達は梢を揺らして私を出迎えてくれているかのように感じて、うれしくなると共に、街路樹の気持ちが分かっても、人の気持ちの汲めない自分自身を責めてしまいそうになるので、ただただ侘しい。
 【誰か、いいひと、いないかな…。】
 こんな私を好きになってくれる人はいないかな…。そんな虫の良い想像をしては、街を歩く。男性は、私の前に歩いている、高校生カップルを横眼で見ながら、うつむいて通り過ぎていく。
 【十代って、なんかエロいよね。】
 瑞々しくも、欲望に忠実な獣の匂いが高校生カップルにはあって、大人には無い、露悪的な空気が二人をつつんでいる。それは、大人になるっていうことは、偽善を覚えていくことだということに対しての無意識の抵抗なのか。それとも、何にも考えていないのか。
 【今は冬。小鳥達でさえも思慮深いまなざしで日々を闘う季節。】
 ひとつまた白い息を吐いた。いつからだろう、子供の目を正面から見られなくなったのは。きっと、そういう人が出てくる小説を読んで、子供に嫉妬からいじわるをしたくなりそうになるのなら、子供の目を見ない方がいいことを学んだからだろうな。
 それらのことを思いながら、街路樹達においでおいでされながら、高校生カップルの後をまるでついていくかのような状態になりながら、ひたすら街を歩いていた。
 すると、いきなり前の高校生カップルがもめ始めた。
 「もう、まじやばい!」
 「なんだよ、何調子こいてんの?!」
 「調子こいてんのは、あんただろ!ゆーちゃん、あたしが好きなのは、ゆーちゃんだけなんだよ。ホントに他の奴らとはしてないしー。マジになったあたしが悪いわけ?!」
 「うっせーな。やっぱ、調子こいてんじゃんか。俺がおまえだけの男になる訳ないだろうが!俺、こう見えてももてるんだからさ。」
 「もう信じらんない!何、逆ギレしてんのよ。あたしはいやだって言ってんの!ゆーちゃんを独り占めしたいのよ…」
 【ありゃりゃ、ゆーちゃんとやら、彼女を泣かせちゃったよ。】
 天下の往来で、浮気を隠そうともしない男子と一途な女子との喧嘩は目立ちはしたが、道行く人皆、見ないふり、聞かないふりを決め込んだ。本音としたら、修羅場は他でしてほしい所だ。けれども、私は基本的に女の味方なので、ゆーちゃんに浮気された彼女に同情しないではいられなかった。
 人の流れにそって、頑張って歩きながら修羅場を繰り広げていた高校生カップルは、ついに道の途中で立ち止まって、ゆーちゃんが彼女を力強く抱きしめた。
 【おお!やるねえ!】
 私は結局、彼女の名前を知ること無しに、高校生カップルの横を通り過ぎていった。
 【ゆーちゃんとやら、もっと彼女の名前を呼んであげなきゃ。】
 野次馬根性からの感想だった。余計なお世話だろうけどね。
 
 それから大型文具店に入った私は、クリスマスカードを探した。ここの客は、圧倒的に女性が多い。クリスマスツリーにきれいな銀のラメの入ったカードを数枚、購入して店をでた。
 もうすぐ、クリスマス。私のような一人ものも、クリスマス近くになると修羅場になってしまう人達も、仲のいい人達や仲間達で迎える人も、【メリークリスマス。】
 
 外に出ると、既に日が暮れていた。街路樹に付けられたイルミネーションがまたたく。私はそれを見つめて、来年はどうなっているか、予測すらつかない自分の日常を思い、ひとつ願いがかなうなら、恋人よりも、お金が欲しいと祈りそうな自分に苦笑した。

           紅白の雫(一)了

紅白の雫(二)
 私は毎朝四時に起きて、二時間程、近所をウォーキングしている。今は冬。天空にはオリオン座が瞬くのを見上げながら、腕を直角に曲げて、勢いよく前後に振ると、足も自然と大股になってすたすたと進んでくれる。
 駅に向かうと思わしき人が、すれ違いざまに私へ声をかけてきた。
 「以前もお会いしましたよねー。」私は言う、
「いえ?存じ上げませんが…。」この声を聴いた男性がさらにたたみかけるように言う。
 「あんたのこと、ずっといいなと思ってたんですよ。」こんな早朝にいきなり見覚えの無い人から告白された。私はぼんやりとその男性を眺めた。年齢は私よりもかなり上だ。小柄だが、がっちりした体躯。顔は少し酒焼けしているのか、鼻が赤い。眼は早朝だからか、とろーんとしている。もしかしたら、酒が抜けていないのかもしれない。
 周囲には人影も無く、家々は太陽が出るのを待っているのか静まり返っている。私は、頭の中が真っ白になってしまった。その、上下黒の作業服を着た男性は私の無言を、良い方に受け止めたらしい…。告白にイエスと答えたことにされてしまった。そうなると、もう、相手のペースである。
 「俺の事、ナカちゃんって呼んでよ。あんたの名前は何ていうんだい?」そう問われて偽名を使えば良いものを私は本名を名乗ってしまった。「斎藤と申します。」「下の名前だよ、下の!」私は頭がぼんやりしてくるのを感じながら、また本名を名乗ってしまった。「智子です。」「ああ、トモちゃんね!」うれしそうにナカちゃんは言った。これがナカちゃんとの出会いだった。
            紅白の雫(二)了

紅白の雫(三)
 カラスが鳴き始めた。しかし、夜明けにはまだ時間がかかる。冬至にかけてもっともっと夜が長くなるのだから。私はいつのまにかすっかりナカちゃんのペースに巻き込まれていた。彼は言う。
 「俺の嫁がさあ、きっつい女で別れようと思っているんだよねー。」いきなり嫁の話だ。私はどう返事を返したものか、咄嗟に言葉が出なかった。するとナカちゃんは私の様子を気にする風でもなく話を始めた。
 「トモちゃんは知ってるかな?あっちの橋のそばにある鉄筋のアパートの二階に住んでいるんだー。もう、嫁とは毎日、喧嘩ばかりしていてさ、家にいても落ち着かないから、早く現場入りして、仕事場で一息つけているんだよー。あのさー、ちょっとそっち行かない?」
と、彼は自分が歩いてきた、後ろの公園へ私をうながすように戻って行った。私はうながされるまま、ナカちゃんの後を付いて行った。

 公園は、地面は枯葉が所々に盛られているかのように積み重なっており、木々の梢の上の方にはいまだ明けぬ夜が覆っていて、オリオン座が瞬いている。私は草木の香りのせいなのか、冷静になっていった。けれども、私は、もう、男性を拒みたくなかった。ナカちゃんは、愛嬌があって、私に素直な好意を寄せてくれているのが雰囲気から感じられて、とても心地いいと思った。ナカちゃんが公園のベンチに私を誘う。私は躊躇せずにそのベンチに座った。ナカちゃんは言う。
 「なあ、いいだろ?」
 私は、もう、男性を拒みだくはなかった。
            紅白の雫(三)了

紅白の雫(四)
 空はまだ星のものだった。月影がうっすらと私達を映し出していた。カラス達は鳴きやみ、スズメ達の鳴き声に変わりつつあった。
草木の香りは私を冷静にさせてくれたが、だからといって、今のこの状況を回避できるだけの名案は浮かんできそうもなかったので、私は何も考えずに、ただ、私に好意を寄せてくれた相手の期待通りにした。
 「うまい」目をむいてナカちゃんは感嘆の声を発した。それから私の首に下げていたタオルで彼は顔を拭いた。、睦言を交わしながら、私達はお互いを貪り合った。ベンチの傍を犬の散歩をしている人が通り過ぎたが、見て見ぬ振りをしていった。私はその様子を尚、一層冷静になった頭で見ていたが、何も考えることはできなかった。【冷静なはずなのに…】私はどうなってしまったのだろうか。そう、この出来事は言ってしまえばボランティアのようなもので、決して、私は、ナカちゃんに本気になった訳ではないのだと自分自身にいいきかせた。
 ナカちゃんは、終わったと思ったらさっさと身体をひるがえして、言った。
 「メルアド交換しようよ。また会えるよね_?」私も自分で始末をしながら言った。「明日もこの時間にウォーキングしていますから。でも、連絡したい時はどうしたらいいんですか?」ナカちゃんは声を弾ませて言った。
 「だから、メルアド交換しようよー。あと、番号もね。俺の名前、ナカノモチっていうのさ。」と、ごそごそと携帯を持ち出して、操作を始めた。私はあわてて、自分の携帯を手に持って、ナカちゃんに負けず劣らず古いタイプの携帯を操作し始めた。【今は、ナントカ通信で簡単にメルアドとか相手に登録できるって話だけれど…】まだるっこしい携帯でのやりとりは、そのまま私達の関係をも表しているようだった。私はナカちゃんが教えてくれたメルアドと番号を登録した。そこで初めてナカちゃんの名前が、『中野用』だと知った。【『ナカノ用』って読むと、まさに中野さんの所有物って感じね】ああ、私の携帯には、この【中野用】が書き加えられてしまったのだわ。
 
 明けの明星が瞬き、少しずつ家々の屋根を太陽の放射が照らし始めていた。
            紅白の雫(四)了

紅白の雫(五)
 私は実家暮らしで無職のアラサーである。いわゆるニートというには年を取り過ぎなので、単に無職だと言うようにしている。
 今日は家の用事を片づけて、渋谷に出かけた。夕方から、好きなミュージシャンのライブだったからだ。そのライブハウスでお酒の飲めない私をからかってか、バーテンが、私がジンジャーエールをと言ったのに、モスコミュールを出してきた。私はとまどってしまって、仕方がなく飲もうとしたら、一緒に来ていた友人カナが、私の手からモスコミュールをもぎとって、バーテンに押し付けて言った。
 「ジンジャーエールって言ったでしょ!」
すごい迫力である。よくよく見ると、既にカナはジントニックを一杯飲みほしていた。しかしおかげで私は飲めない酒を飲まずに済んだので、お礼を述べてカナからジンジャーエールを受け取った。
 
 ライブが終わって、火照る身体と心を外気でさましながら渋谷駅に向かって坂を下りていった。私にしがみつくようにカナがついてくる。相変わらずのすごい人ごみである。お互いに身を寄せあわなければ、すぐに見失いそうだ。【もう、終電に間に合わないかも】そう思って、私は歩くスピードを下げようとしたら、カナが今度は私をひっぱる形になって、どんどんずんずんと人ごみをかきわけて進んでいくので、私はひきずられそうになりながらかろうじてカナについていった。
 その時。
 「五百円でいいから!」女性の声がした。一瞬の出来事だった。横にいた、いかにも十代の少年が、歯の欠けた、老婆と呼ぶにふさわしいいでたちの女性に腕をつかまれて、目を白黒させているのが見えた。
 私達はなんとか、終電に間に合うことが出来た。【なぜ、ライブの内容よりも、あの一瞬の出来事が頭から離れないのだろうか】少しの疑問を感じながら、私は今日の早朝の出来事にうずくものを感じずにはいられなかった。
            紅白の雫(五)了

紅白の雫(六)
 【私は何をしているのだろう?またこんなことになっているなんて…。】
早朝、待ち合わせでもしたように、ナカちゃんは公園で待っていた。昨日とほぼ同時刻だ。私はウォーキングして高揚している気分が、少しだけ、沈むのを感じながらも入って行った。
「おはよう。トモちゃん、今日も元気だねー。」今日も昨日と同じ作業着を着ているナカちゃんは、愛想良く私に話かけてきた。昨日の出来事が蘇ってくる。私はまた、頭がぼんやりしてくるのを感じた。だが、もう遅い。
「嫁がさー、酒を飲むと乱暴してくるんだよなー。ひどい嫁だろ?酒癖が悪くて、あんなの女じゃねえよなー。トモちゃんはお酒はどうなの?」いきなりまた、嫁の話である。私は心の中に鬼がむっくりと起き上がってくるのを感じたが、無視することにして、答えた。「私、下戸なんです。」「ああ!それがいいよ、女性はさ、飲めない方がいいって!」心のどこかでお酒を飲んで乱暴になるのは、ナカちゃんの方ではないのかという疑問を感じた。しかしながら、そんなことは私には関係無いことだった。私はどこかでこういうことを望んでいたのかもしれないと思っている自分がいるのだ。私は罰を与えられなければならないのだと。

 「いいだろ?いいだろ?」致しながらナカちゃんはささやくように言う。私は声にならない声で答える。頭の芯が輝きを増して私を解放するのだ。罪の意識から。あの人から。
【私はナカちゃんを利用しているのだわ】涙が一粒つうーっと零れ落ちた。ナカちゃんはそれを見て、言った。
 「初めて?…な訳はないよなー。あ、昨日!後悔してんの?トモちゃん?」甘い声で耳元にささやいてきた。私は首を横に振り、「ナカちゃんを好きになってもいいかなあ」と言った。彼は、顔を紅潮させて目が輝いたように見えた。
 「俺さー、あんたのこと、なんか、身近に感じられて好きだな。」ナカちゃんは、なかなか嬉しいことを言ってくれる。彼と肩をならべて駅に向かう。改札口で、軽く口づけ合うと、手にむりやりなにか渡された。
 見ると、五百円玉一枚だった。「え?!」
 「いいから、それでジュースでも飲みなよー。」そう言ってナカちゃんは改札口を渡って行った。私は向こうで手を振るナカちゃんを見ながら、手を振り返して答えたが、心の中は穏やかではいられなかった。【あの老婆と私は同じ値段ってこと?】いざ、お金がからんでくると、当初の意気地はどこへやら、揺らいでいく自分がみじめだった。携帯を取り出してアドレス帳を開く。『な』の欄にある『中野用』の文字。【そう、私はナカちゃんのものだもの】さあ、急いでシャワーを浴びよう。家の者が起き出す前に。
            紅白の雫(六)了

紅白の雫(七)
 その後もナカちゃんと私は逢瀬を楽しんだ。
ナカちゃんは、土木工事の親方をしていること、○○組という会社で働いていること。奥様には男のお子さんが二人いて、既に二人ともトラック運転手になって家を出て行ったこと。奥様はお酒を飲んではナカちゃんに八つ当たりをして暴れるそうで、ナカちゃんは早く離婚したいと思っていること。けれども話といえば奥様の話ばかりで、私のことは少しも聞こうとしない。【その方がいい】私は現状に満足していた。ナカちゃんは絶倫という訳ではなく、年相応ともいえるし、奥様の顔が浮かぶと最後までいけない時も多かった。それに、何も毎日セックスをしている訳ではなかった。ただ会って、駅までナカちゃんをお見送りに行くことの方が多かった。会うたびに渡される五百円玉に複雑な思いが募ってきたが、心の中の鬼が私をたびたびイライラさせる程度で、何の問題もないはずだった。
 「まだ、誰にも知らせてないだろ?」それがさも当たり前であるかのようにナカちゃんは言った。「もちろんですよ。」私は答えた。決して人に話せないからこそ逢瀬を楽しめるのだから、当然のことだった。しかしながら、この関係が意外なことで崩れるとは思わなかった。

 今日は、友人カナとの夜食会である。彼女は目の前に運ばれた料理に舌鼓を打ちながら、いきなり私に質問してきた。
 「ねえ、あんた今、誰か好きな人いるんでしょー。」私は心臓が跳ね上がった。「好きな人はいるけど、付き合ってないんだ。告白もまだだし。」それを聴いたカナは言った。「うそつき!私、あんたのお母様から連絡があったのよ。あんた、今ずいぶん早い時間にウォーキングしているんだって?」【そのことかあ、ちょっと安心したわ】私はひとまず安堵して答えた。「そうなの、最近、中年太りっていうの?なんだか体中が重力に従うようになっちゃってね、ダイエットの為に歩いているんだ。気持ちいいよ。」それを待ってましたとばかりに聞いていたカナは言った。
 「あんた、ちゃんと寝てるの?なんか痩せたってよりも、やつれた感じで心配なんだけど。」それを聞いた私は申し訳なさそうに答えた。「大丈夫だよ、ほら、中年以降で急激にやせると皮がたるむんだよね…。筋肉付けなきゃって思ってるんだ。ウォーキングを始めてからずいぶんと体脂肪率が減ったんだよ。カナはスタイルいいけど、何かやってるの?」
話をそらそうとしたが、カナはさらに切り込んでくる。
 「あのねー。トモのお母様がね、あんたがあまりにも早い時間にウォーキングしていることを心配して、もしよければ一緒に歩いてくれないかって頼んできたんだけどー。」「ええー?」私はびっくりした。母はどこまで知っているのだろうか。「ごめんね、カナとは小学校の時からの友達だし、独身で一人暮らしだから頼みやすかったのかも。」「トモって、ホント、一言多いよねー。独身ですよー。もうあれ?わたしらって三十年近くの付き合いになるのねー。なんかすごいね。だからって訳じゃないけど、何でも私に話してよね。今までだってそうだったんだしさ。」知らず知らずの内に周りに心配されていてそのことに気付かなかった自分を呪った。「心配させてごめんね、ホント、ダイエットって大変よね。昼間にウォーキングするとご近所の目があるから恥ずかしいし、人通りも多いから、早朝の方が都合がいいのよ。」私は説得を試みた。しかしながら、彼女はまだ話題を変える気はないらしい。
 「あのね…。匂いがするんだって。」「は?」
「お酒の匂いだって。何度かウォーキングから帰ってきたトモと、トイレに起きてきたお母様とでトイレの前ですれ違ったでしょ。その時にあんたからお酒の匂いがするから、おかしいって言ってたけど、あんた飲んでんの?」
意外な所で指摘されたので、あわてて言った。「飲んでないよー。お母さんが寝ぼけていたんじゃないかなあ。」そう言う私に疑いの眼を向けながらカナは尚、続けた。
 「じゃあ、あの噂は聞いてる?」いきなり話が変わったので、私は思わず聞いた。「どんな噂?」カナは私の顔に自分の顔を近づけてささやくように言った。「早朝に○×公園で青かんしてるカップルの女があんたに似ているって噂。それで、あんたのお母様が私に聞いてきたのよ。」私は頭が真っ白になっていくのを感じた。
            紅白の雫(七)了

紅白の雫(八)
 「それ、私じゃないよ。」短く答えるのがやっとだった。あの…早朝に犬を散歩させている人が私の顔を見ていたなんて…。【でも私はナカちゃんの用足しの為の人間だもの。それだけでいいの。】知らず知らずの内に手には携帯電話を握りしめていた。それを見た友人カナが手を伸ばして携帯をひったくった。「あ!」私は店中に響く声で叫んだ。カナは我関せずの精神で携帯電話のアドレス帳を覗きこみ、ある文字に目を止めた。
 「これ、なんて呼ぶの?ナカノヨウ?」私は思わずクスリと笑って言った。「ナカノモチって読むのよ。おもしろい名前よね。」「ふーん。ナカノモチ…変な名前。」【良い名前だと思うけどな】私は残念に思った。それからカナの尋問はナカちゃんのことに集中した。私は応戦するので精一杯だったが、こういう時に自分自身でも情けないのだが、うまくごまかすことが出来ずに正直に答えてしまうのだ。「…実は、その人が最初に言った好きな人なの。だけどちょっとね…。」「何、訳有りなの?相談にのるよ?」椅子の背もたれに寄りかかり一息ついた感じのカナは、眉間に皺を寄せてつぶやいた。
 「やっぱり、噂は本当なのね?」かれこれ六時間にも及ぶ尋問の結果、私はただ、うなずくしか出来なかった。「信じらんないー。」
カナは頭をかかえてテーブルに突っ伏した。私は心の鬼の存在を確かに感じていた。ついに現れた鬼が私の身体を通じて話し出した。
 「ナカちゃんは、私のものよ。」声色も怖い私をマジマジとカナは見て言った。「ねえ、スキンは付けてるんでしょ?」「付けてない」
「ばっかじゃないの!」カナちゃんは心底呆れたように吐き捨てた。「とにかく、自分の親に報告しなさいよ。本気なんでしょ?私からは適当にごまかしとくからさー。あと、スキンは必ずすること。だって、結婚しているんでしょ?御用さんは。」【『御用』って。確かに私達は悪いことをしているのだわ。世が世なら、二つに重ねて四つに切られているかもしれない】カナは、私の様子がおかしいことを好意的に受け止めてくれた。【ナカちゃんとの関係を知られてしまったわ】私に罰を与えられるのはナカちゃんだけなの。【鬼よ私から出ていけ。私は私の幸せを求めるだけなのだから】カナは秘密にすると約束してくれた、と同時にもう青かんをしないことを約束させられた。
            紅白の雫(八)了

紅白の雫(九)
 あと一週間程で冬至である。その二日後にはクリスマスイブがある。今はどんどん夜が長くなっていく季節。夜が世界を支配するのだ。そこには解放された女が一人、腕を振り上げて昇る太陽を待ちながら歩いていた。【今日はナカちゃん、会社が休みなのかな?】不定期なナカちゃんのシフトを私は把握出来ない。それだけでも鬼はいらだっているが、私はそうはならない。いつだって、【これでいい】なのだから。でも、会えない日はやっぱり淋しい。【かつては、恋人よりもお金が欲しいと思っていたのに】久方ぶりの男性の肉の味を覚えてしまった。それに、ナカちゃんに会って一緒に駅に向かうだけで心が穏やかになる自分がいる。別れ際に手に握らされる五百円玉を密かに集めている。クリスマスプレゼントを買う時に、これも使ってお返しをしようという、せこい考えもあるが、むしろお金よりも記念が欲しいのだ。【形あるものが欲しい】そう思う自分が少しずつ贅沢になってきていることに気付きつつも、止められなかった。

 ナカちゃんは、スキンを付けることを承諾してくれた。それからは、私はさらに解放される回数も増えて、ナカちゃんは満足そうだった。奥様のことはいつしか話さなくなっていた。その代わり、私に質問することが増えた。「トモちゃんは、結婚しないのかい?」
「え?」私は驚いた。なぜなら当然ナカちゃんとすると思いこんでいた自分がいたからだ。
 「考えてはいるのですが…。」いまだに私はナカちゃんに敬語で話しているありさまなのだ。ふと思い立って聞いてみた。
 「父と会ってくれませんか?」「いやいやいや、何言ってんだよ、冗談はやめろって。」
 「いえ、冗談ではなくて、本気なんです。」
「俺には嫁も子供もいるし、もうこんな年寄りだからトモちゃんにはこれからもっと良い人が現れるよー。」そう言ってナカちゃんに、はぐらかされた。しかしながら、私は一度思うと、そうせずにはいられなかった。まず、母にこれまでのいきさつを話した。すると母の目が真っ赤に染まったような光を発した。母は父が帰ってくると言った。「この子、有頂天になってて、現実が全く見えてないんですよ!」父が面倒臭そうに答える。「なんだ?」私は毒を食らわば皿までの気分になって父に話した。父も目が深紅に染まって怒った。「すぐにその携帯を変えなさい!」私は思ってもいなかった展開にあわてて言った。
 「ナカちゃんが好きなの。本気なの。駄目なの?」私はいつしか泣き声でそんなことを言っていた。しかしながら、両親共に譲らない。私は助けてほしくて、ナカちゃんに、その時初めて携帯電話の番号にかけた。
 ♪ル・ルルル・ル・ル・ル♪「はい。」「あ、ナカちゃん?ねえ、お父さんと会ってよ。」「はあ?もしかして俺の事、話しちゃったの?」「そうなの。ねえ、奥様と別れて私と一緒に…。」「なんで、くっくっ。」【ナカちゃん笑ってる】私は押し黙った。ナカちゃんは続けてこう言った。
 「良いお友達が出来ましたって言えばよかったのに。(プッープープー)」私は、父が私に負けず劣らず涙を流しているのを静かな気持ちで見ていた。
            紅白の雫(九)了

紅白の雫(十)
 せっかちな恋だった。私はいつも失敗するのだ。あの人のことが忘れられなくて。あのことを忘れたくて。男性に寄りかかり、それだけでは飽き足らず、さらにさらに寄りかかりたくなって、相手を失ってしまう。その繰り返しをもう十何年としている。
 
 ふと、鬼が消えたのがわかった。今ここにいるのは中年にさしかかったアラサーの女。いつかの、高校生の修羅場を思い出したのはなぜだろうか?あの後、二人は思いを遂げることができたのだろうか?男の子は浮気を悪びれずに天下の往来で彼女にばらしていたっけ。彼女はそんな男でいいの?女の執着心は男の最も恐れて避けたがる所だろう。しかし女は待っているのだ。女にだけある小部屋の中に誰かが入ってきてくれることを。そこには鬼が待っている。本当の幸せならば鬼は菩薩となって子を育むだろう。しかし、男の不貞を見て見ぬふりをすれば尚、鬼は狂気を増し女を執着へと導くのだ。執着の終着駅はいつも突然、たどり着いてしまう。その時、電車にはいつも私が一人、いて、プラットホームで笑い合う男の家族を見つめているのだ。
捨てゼリフを吐いてみる。
 【奥様、あなたの旦那様は女慣れしすぎているところを見ると、きっと私以外にも女がいると思うわよ。】会ったとたんに青かんに持ち込んだ男のムード作りと手練手管を思い出して私は思わず苦笑した。

 あの一件以来、早朝ウォーキングは父に禁止された。私は土日にカナと一緒にウォーキングをしてダイエットに励んでいる。
 カナは私の頭をなでて言った。
 「あんた、御用さんと別れて正解よ。だって、あんな年上の人と結婚でもしたら、はっきりいって『介護婚』よ!あんたは、親の介護をすればいいのよ!」妙に納得したのだった。
            紅白の雫(十)完


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