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【まち】面と向かって伝えるって面倒?イベント「公園は誰のもの?」からクレームの伝え先を考える♯054

近所にある昔ながらのパン屋さんには、平日、休日問わず昼間は長い列ができている。特に土日の昼には、列が2、30人になることも。パンを買うのに30分待ったこともある。
先日、その列に並んでいると、突然警察がやってきて、パン屋さんに入っていった。その直後、店員さんが「クレームが入ったから・・・」と行列の整理にやってきたのだった。行列内でトラブルが起きていたわけではない。おそらく、近所の住人からの苦情があったのだろう。
「苦情を言うのになぜ、わざわざ警察を介すの?」と開いた口が塞がらなかった。
そのパン屋さんは昔からあるお店。そしてそのパン屋さんがある町には昔からの家も沢山あるので、「住人同士のコミュニケーションがとれている」と思っていた。
そんなの一言、「ごめんね、ちょっと玄関まで列が伸びてきて、家の出入りがしにくいから列の並び方変えてもらえない?」と住人がお店の人に伝えたらいいだけの話じゃないんだろうか?直接伝えに行くことによる身バレが怖いのだろうか。警察を呼ばないと伝えられないくらい以前にトラブルがあったのだろうか。

話は変わって、昨日、グラウンドレベルの田中元子さんのトークイベントに行ってきた。トークイベントのお題が「公園は誰のもの?」というもの。「公共性」「自由」「責任」という言葉の裏側にある田中さんの哲学、世界観にふれられ、上滑りすることのない力強い言葉に魂が震える思いになった。

そこで「ルール」について言及されるものがあった。
田中さんがおっしゃっていたことを自分なりに解釈したものがこちら。

・「しっかり管理しろ」「ルールを決めろ」と運営側に苦情を言う人がいるけれど、なんで当事者同士で話し合わないの?
・結局、それって「自分の自由を放棄します」って言ってるみたいなものなんだよ。
・なんでもかんでも責任を逃れるために「ルール」で縛ろうとするけれど、その風潮がどうかと思う。
・責任を持てることって、自分の主体性を発揮できる立場であるってこと。喜ばしいこと。
・ルールに縛られた世界に慣れすぎていると、いざ自由を得た時、何もできなくなる。
・一つのルールは一滴の消毒液。異質なものを殺菌はできるかもしれない。でもそれによって免疫力を失っている。
・そもそも公共性って、「正しい人」以外は排除されるものなの?

田中さんの内側にある1つ1つの「問い」が自分自身を覚醒させてくれるものだった。

私も小さい子供がいるので、公園にはよく行く。
子供が1,2歳のときは、小学生くらいの子供たちが走り回って遊んでいると、「危なそうだなぁ・・・公園変えようかな」と思ったこともあったけど、いざその中でも遊ばせていると、その子たちが「赤ちゃん、かわいいね」と声をかけてくれて一緒に遊んでくれたり、小学生同士で「赤ちゃんがいるから気を付けよう」と声をかけあって私たちが安心して遊べるよう配慮してくれた経験がある。
一方で我が子が小学生の立場になると、大きな公園でもやれ「ボール遊びはするな」などと書かれていて、サッカーも野球もする場所がないね、と子供とよく話している。

トークイベントにも、ルールで縛ることによって、利用者同士のコミュニケーションを生む機会を奪っているという言及があった。

その通りだ。いろんな人がやってくる公園だからこそ、お互いに目配りし、「使いにくいな」と思っている人がいたら、トラブルを恐れることなく直接相手に伝え、その場でベターな解決方法を一緒に考えて実行するのが理想ではないのだろうか。

翻って冒頭のパン屋さんの話に戻る。
この件も根本は同じなんだと思う。
この町の当事者同士で解決できる話を、警察に委ねてよいのだろうか。
「暮らしやすい町にするため」に対話を重ねる機会を放棄していることに繋がらないのだろうか。
町の主人公は自分たちなのに、お互いのベターな解決策を考える機会を放棄して「自分さえよければいい」のであれば、残念過ぎる。
こんなこと、当事者同士で話し合うなんて面倒くさい。面と向かって衝突を起こしたくないというのが本音だろう。
ただその面倒臭さの中に大切なことがあるんだと信じている。

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