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家族を送るということ。#1

「心臓が止まったって」

その連絡を受けたのは、お見舞いに向かう車をスーパーの駐車場に止めて、ランチのハンバーガーを食べようとしていたときだった。
4月。義父が入院して、すでに4週間がたとうとしていた。

入院するまでの義父は、要介護3。年齢は数えで90だ。
カテーテル管理をしながら週に2回、訪問看護師さんに健康チェックやシャワーなどをしてもらいながら、義母とふたりで生活。週に数回、自分を含め家族が代わる代わる訪問して支えてきた。

しかし、どうにもご飯が喉を通らなくなり、衰弱を恐れて救急外来に受診したところそのまま入院。折しも新型コロナウイルスの感染者が増えてきて、病院での面会も思うようにできず。厳戒態勢の中何回か、何とかお願いして短時間家族だけ会わせてもらうことはできたが、毎日でも顔を見に行きたかった義母は相当つらかったと思う。

加えて、ほとんど入院をしたことのない義父は、環境ががらりと変わったことで精神的に不安定になったそうだ。しかも、家族にも会えない。
だが、家にいればからだが弱っていってしまう。ギリギリの選択なのかもしれないが、とりあえずご飯が食べられるようになれば退院できるかな、と義母に言い聞かせていたところであった。

自分たちが病室に駆けつけたときすでに他の家族は来ていて、心臓マッサージが終わったところだった。ぼんやりと椅子に座っていた義母の表情は魂の抜けたように力なく、そっと背中をなでることしかできない。
そして、こういうとき他人である嫁は何の役にも立たないのだ。
そういえば、弟のときも間に合わなかったよな、などと数年前のことを思い出し、こういう「哀しみが支配すべきときにいつも冷静に振る舞う自分」が、再びすっと着地したようであった。

義両親はすでに○○というメモリアルハウスの会員になっていて、連絡するとすぐに車で来てくれるという。それまでの間、病室の持ち物を急いで整理し、病院側が義父の清拭などして身を整えてくれるのを待つ。姉たちが義母を車で家にいったん連れて帰ってくれた。

「お支度できましたよ」

残されたのは自分ひとりだったので、病室に入る。安置された義父は、まだ静かに眠っているようだった。いつも眼鏡をかけていたので、別人のようだ。孫たちが小さいとき、お風呂に入れるのにも眼鏡をかけていたぐらいだからなあ。そして今、ここにいるのは何の血の繋がりもない自分だけ。
どこまでも、しん、として静かだ。

「私はよい嫁でしたか?」

などといったポエムは、まったく沸いてこず。
そばにいるだけだった。それに、この貴重な時間、自分のような他人が横にいていいのかという申し訳なさ。

義父は、家族にとっては多少頑固なところもあったと思う。
ただ、娘や妻にはときに声を荒げることはあっても、自分には決してそういう態度を取ることはなく、いつもニコニコ優しかった。茶目っ気もあった。

ああ、今になってこういうことを書きたくなるのって、たぶん自分の中で失った哀しみが昇華されていないんだろうなあ。
だって、その後は本当に怒涛のような日々だったから。

やっとメモリアルハウスの車がやってきた。
病院の裏出口からそっと出る。担当医や看護師さんが最敬礼をしてくれた。


おじいちゃんは、これからやっとやっと、
あんなに帰りたがっていた家に帰るのだ。


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おきらくなちっこいペンギン。ゆるーーーいファジサポ。介護とか雑記。