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主語を「子ども」に変えてみよう!

エドカフェ No.5 「対話を生み出すには?」木村泰子さん(映画「みんなの学校」の校長先生)のお話をまとめてみた

開口一番「なんの打ち合わせもしないこのエドカフェが大好きです!」

授業は対話でつくっていける

先生から出る言葉が「指示」ばかりじゃ「対話」は生まれない。

「こんなこと言ってもいいの?」「これやっても大丈夫?」と・・・
子どもから質問攻めに合うのは、教師が正解を握っているから。
「え?なんで私に聞くの?」とか「どっかに正解ある?」とか「私が正解言ったらその通りするの?」とか・・・そういう言葉を返せば子どもは質問しなくなる。
正解なんてない、対話による「学び方」を知れば自分で考え出す。
「そうは言ってもスキルはちゃんと教えなきゃ!」とか言う人が必ずいる。でもそうすると対話ということにゆるやかにつながっていかない。

「わたしに聞くな。」「それはみんなで考えればいいんですよ。」「みんなで相談しましょう。」これもみんな指示。それでは子どもは「はい」と言わざるをえない。

返しは「なんでわたしに聞くの?」でよくない?

そういう短い言葉で返せば対話は続く。たとえ一年生でも。

指示をなくせばおのずと対話しかなくなる。


対話で生まれるチーム力

対話してる時間がないっていうけど、「カリキュラムが進まない!」とか焦ったら要領かませばいい。
先生たちも「これここにひっつけたらやれる。」「よし、ここカットしよう!」とか雑談できれば授業内容もスリムになる。
いつもいつもカリキュラム進めなきゃってなるから先生たちしんどくなる。ひとりで任されたらそんな余裕もなくなる。だから対話しながら「ここ得意だからまとめてやるわ!」「そっちやって」とかチームで取捨選択したらいい。

ときには授業内容をギューっとまとめて、子どもたちに「ごめん、この時間だけこれやって!このプリントにまとめといたから、わからなきゃ教えるから!」みたいな時間があってもいい。

カリキュラムをこなすことは目的じゃない。手段にすぎない。教科書も手段。教科書全部教えること目指してたら自分の首しまってくる。
「このトラブルでこの力ついたからここはオッケー!」など裁量を。教員ひとりでやるのは不安だからチームでやっていけばいい。

「子どもを育てる」なんてできる?

そんな尊い仕事が教師の仕事?この言葉自体問い直さなければ・・・

「子どもを育てる」って言っている間は主体は大人

(すべての)子どもが育つ そのために教師にどんな力が必要?そのために対話というツールがなかったら・・・教師の「指示伝達」みたいな、「対話」に似せた、実は上からのトップダウンだったら、これまでと変わらない。

主語を子どもに変える!

そう考えたらいろんなことがクリアになってくる。

「子どもを育てる」ために何が必要か?と、
「子どもが育つ」ために何が必要か?と考えるのとでは全然違う。

「先生が指導する」から「子どもたちが育つ」へ変わっていく。

「対話が大事だから対話しなさい!」って指示では本質的な対話は生まれない。

話し合いしてても全然対話していない。対話をしているように見えても学んでいないという授業はよくある。

対話が成立したら子どもの事実(すべての子が安心して学べているという事実)が生まれる。

子どもは本来自分の言葉で対話するもの。それをなくしているのが学校では?

子どもたちの言葉はひとりひとりみんな違うのが当たり前。その違うひとりひとりが尊重されていれば・・・

「人の話をよく聞きなさい!」「嫌なこと言っては行けません!」「あなた笑ったでしょ!笑われたらいやでしょ!あやまりなさい!」こういうふうに空気つくってたら安心して自分を出せない。
おもしろかったからつい笑っちゃった。おこられた。もう笑えない。心の中で「あいつばかやな」と笑う。先生が気づかなかったら、子どもはこういう格差を心の中にためていってしまう。
「今のあかんやろ」「今のやり直しした方がいいだろう」と言える空気。安心して本音を言える空気をつくる。そうすれば対話が成立する。

何を言っても誰かがフォローしてくれるから安心して本音が言える。

腹を割って話せれば次へ行ける。


一人で背負わなくていい!

先生が全部ひとりでつくらなくていい。先生が、学校が、やらなきゃ!責任が・・・って思わなくていい。学級のすべての子どもを一人で育てるなんて、仏さんや神さんじゃないんだから無理!

「私は学級のすべての子どもを育てることができている」と思っているとしたら、それは洗脳しているだけ。

指導力=洗脳力

子どもが「こんなこと言ったら先生怒るかな?」と思ってたら本音は出てこない。「これ言ってもなにか返してくれるよね?」と信頼してるから本音が言える。お互い学べる。まず学びのプロになってるか?と教師が自分に問い直さないと。

まず上から変わろう!

教育を受ければ受けるほど対話ができなくなっている日本社会は、自分がやってきた教育の結果。真摯にやり直しをしなきゃ!

相手が誰であろうと肩書きを全部とっぱらえば人と人。対話はできる。
「目上の人の言うこと聞け!」これはダイバーシティの中で「なにを学ぶ?」っていったとき非常に危険。目上の人の言うこと聞くんじゃなくて、この人の言っているこのことが大事だから聞こうねっていう本質を掴み合うために対話がある。
対話を成立させるには、「上」がまず変わらなければ。
ベテランがどれだけ自分を変えれるかで若者が変わっていける。
先生と子どもなら先生。校長と教職員ならまず校長。親と子なら親。上司と部下なら上司。
対等にするためには上がまず変わらないと。このことがすごく大事。

それによっていかに安心感をつくれるか?

上司に「はい」と言わないのが失礼なのではなく、「1+1=5」って言う上司に「え?2じゃないんですか?」って言わないことが失礼。


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