ドキュメンタリーなこと

映像にも色んなジャンルがある。
最近、自分の畑はつくづくドキュメンタリーなのだと感じる。

MVの思考、思想が強い人の意見を聞いて「なるほど」と思うと同時に、そこにMV的な思想の真髄があるのだとすれば、ドキュメンタリーの思想が強い自分とは相入れない部分もあるのだなとも思った。

例えば”手ブレがあるショットは避けてください”とか”この顔は可愛くないからカットしてください”といった要望も、そこにドキュメンタリーの真髄が宿る瞬間があると感じる。

手ブレは計算されてない動きに合わせたもので、カラダとカメラが動いたものだ。
予測し得ない被写体の動きを捉えようとすれば、カラダとカメラはそれを捉えようと動かなくてはならない。予測し得ない被写体の動きは段取りが組まれた動きでは作ることのできないサムシングが含まれており、そこに僕は面白さを感じる。事前に導線がしっかりと組みこまれた映像制作ではおそらく余計な部分であり、余分なものなのだとも思う。僕の思想はそこに宿る”何か”を捉えたい、映したいという気持ちが動力源になっている。

「この顔は可愛くないので、カットしてください」という指示も、狙い澄ました画角では捉えられない感情を映し出すことがあると思う。泣き崩れて、化粧が落ちた顔に宿る何かは確かにあるし、怒りに満ちた表情にだってそういう一面はある。

アンコントロールなことが沢山起きる現実があるからこそ、そのアンコントロールな出来事を映像素材の一つとして捉えて構成、編集していくことに僕は妙を感じる。その現実の世界に私たちは生きているし、その世界から避けることは出来ない現実を生きていると思う。

学生時代にドラマ制作の才能がないと諦めた。本当は華やかな芝居や世界を映したかったのが本音だ。
でもそれは向いてなかった。

動きが予測できない場所にカメラを持っていった。暴走する被写体は魅惑的だ。
不思議と自分が自然とカメラを持っている。自分の息遣い、自分が興奮している様は手からカメラに伝わっていた。

劇映画でもドキュメンタリータッチに描かれるものが好きになっていった。
ダルデンヌ兄弟の一連の作品は全て手持ちのカメラで背中越しにキャストの動きについてまわる。
だから芝居がフレームの外にいこうと躍動している。
フレームの中に収まらないといけないという使命がない、芝居は自由でエネルギッシュだ。

ポール・グリーングラスの作品群にも、そうした手法をアクション映画に取り込んだ独特の文体がある。
僕はその手ブレを多用して見づらい、やや暴力的な映像が好みだ。

でもいろんな考えがある。MVの考えがなければ、MVは作れない。
MVの人がRONINと呼ばれるスティディカムの機材を使っているのを見て、これを使えば僕の手ブレも少しは滑らかになって見やすくなるのかなとかも考えた。

そうやって擦り合わせて、映像を作ることを探究出来ることは幸福だなと思う。
映像は面白い。だからこそ、ドキュメンタリーで僕は勝負すべきとさらに思った。

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