違和感こそ、よ
違和感
仲間で集まった際に「でも、あの人めっちゃ金出してくれるからなぁ」という話に、ん?ってなった。
お金を払えば偉いのか?ビジネスって主従なのか?
そういう意味じゃなかったかも、顧客コミュニケーションの一環としてファン階層は大事。でも、違和感があった。
これって、色んなことが絡まって、お金を持ってたら。年上だったら。先生だったら。上司だったら。親だったら。主従のようなそういうバイアスで善悪や正解判断をしてしまったり、見られる側もそういう物差しで人や自分をはかり、善悪や正解判断することに繋がりかねないんじゃないか。
お金って、何
お金って、市場の需要よりも託された信頼で、ありがとうの具現だと思っていた、あの頃。
期待を背負って、一緒に理想に近づくちょっとした一蓮托生感。
金額がデカいほど、求められる価値が大きい気がして引き締まるけどそれはあんまり問題じゃなくて。
また来たぞ、違和感
単価や報酬、あり方を気にするようになったのは「これってパッションだけでやれる人達が片手間にやってるだけでいいの?」と思ったから。
共創であってほしい。やりたい!と思った人達が自身を持って飛び込める役割であってほしい。
だから、今あり方を更に考える。主従関係で、本当にいいものが共創できるんだろうか?
喧嘩を売りたい
先人に尊敬しながらも、壁を見ながらも「教育は儲からない」に喧嘩を売りたいと思い続けた。
最近は「教育」がやりたいんじゃない。という気持ちがある。
多分、「何からでも学べる」「意見や物の見方の違いは発見に繋がる」「人を通して自分に気づく」「誰かにとって自分はそんな役割になっている」
そんな気持ちを持って、繋がって、そこにある自分を少しずつ肯定していきながらもっと好きになる。
そして、人とともに挑戦できる。
そんな人が沢山いる世の中。
今はそれを目指したいんや。
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