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詩歌の朗読、音読について覚え書き

 渡邉十絲子は『今を生きるための現代詩』(講談社現代新書)で、安東次男の「みぞれ」という詩について、

 しかし安東次男はこの詩のなかで、詩句そのものに「指示」をおりこんだ。そのことは、詩は音読のための楽譜ではない、紙に印刷されたものそれ自体が作品であることの証拠である。
p.101

 と書いている。現代詩についてよく知らない私は、「現代詩=音読不可能。テキストで完結するもの」という印象をこの箇所から抱いた。
 いわゆる視覚詩に興味があったことも、そのイメージを助長した。
 単純な例として自作を挙げると、


長雨
眺めて
いつから
降っている
雨なのかさえ
忘れてしまって
ああわたしのほほ
ああわたしの髪
すべて移ろう
まるで雨に
降られた
さくら
桜の


冨樫由美子『トライアングル▽とらんすれえと▲百人一首』

 も三角形になっているから視覚詩の一種だろう。
(これは小野小町の百人一首歌「花の色はうつりにけりないたづらにわが身よにふる眺めせしまに」の訳詩である)
 音読して意味は通じても、工夫の眼目は伝わらない。その意味で「音読不可能」ということもできる。

 ところが、最近ツイッターの「スペース(音声通話)機能」で少し話した現代詩人たちは、自作詩も他者の詩もよく音読・朗読する。「ポエトリー・リーディング」という文化、流れがあるらしいことがぼんやりわかってきた。そういえば90年代終わりからゼロ年代にかけて、「詩のボクシング」というものがテレビでも放送されていた。(「詩のボクシング」は現在でも開催されているようだ)。

 わたしは主に短歌を創作しているのだが、「短歌絶叫コンサート」を続けている福島泰樹などはむしろ例外的な存在で、表現としての短歌朗読は最近ではあまりされていないように感じられる。
 ゼロ年代に「マラソンリーディング」という自作短歌の朗読会を聴きに行ったことがあり、そのころすこし短歌のリーディングが流行したかもしれない。

 短歌は原則として31音で作られる。だから作るときには、すくなくともわたしは、頭の中で自分の短歌を音読しなければ作れない。
 他者の作品を黙読するときも、頭の中で音読する。

 だが、「表現」として短歌を朗読することは、繰り返しになるがあまりないのではないだろうか。歌会の場では披講といって参加者の作品を読みあげるけれども、それは正確に淡々と読むことが求められる。独自の解釈や表現は入れないのが望ましいはずだ。

 親和性が高そうな短歌よりも、現代詩のほうが朗読されている? ようにみえるのが面白い。

 ※わたしから見えている狭い範囲の観測の覚え書きであり、「短歌の朗読は今も盛んだよ!」とか、異論反論情報お待ちしております。

 一

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