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紙のパンツと、涙

ははは。
マツモトさんは泣き笑いの顔だった。

シャツをパリッと着こなしてデイサービスに来ていたマツモトさん。
80歳を過ぎても姿勢が良くて品もあり、大企業の重役さんだった頃から温厚だったんだろうなと想像させる穏やかな話し方と物腰。
そして、シャイな方だった。

同じ曜日に通う女性陣が「絶対に奥さんを泣かせなかったタイプだね〜」と勝手に噂するくらい「良い人」だった。

マツモトさんは飼っているプードルとまた散歩がしたいのだと、リハビリに励んでいた。
「頑張ってるね!」と声をかけると「うん、頑張ってるよ!」
ちょっと杖を持ち上げて、いつも笑顔だった。

でも、マツモトさんの様子は少しずつ少しずつ変化していた。
認知症が進んでいたのだ。
すぐに忘れてしまうことが増えてきて、そして重大な変化は、トイレに間に合わない回数がだんだん増えてきたことだった。

デイサービスに持ってくる着替えの枚数はだんだん増えていた。
でも、それでも足りない日がでてきた。

デイサービスの貸し出しのものを履いて帰る日は、パリッとしたシャツにスエットのズボン、ということになる。
「悪いねえ、助かるよ」というお礼を聞きながらも、おしゃれなマツモトさんの胸の内と、家の玄関で迎える奥様の胸の内、それを考えると切なかった。

紙のパンツ。
リハビリパンツ、、短くリハパンと呼んでいる。
それを履けばトイレに間に合わなくても衣類が濡れないし床も汚れない。
奥様が一日に何度も着替えを手伝ったり、洗濯したり、床を掃除する。
その大変さがみんなの心配だった。

でも、布のパンツが紙のパンツになる、、、それは大きな大きな違いなのだ。
人ができなくなることのうち、排泄が今までのように自分で始末できなくなる、そこには特別な悲しさがある。

認知症になっていたって、マツモトさんの中から心がなくなったわけじゃない。
いろいろをすぐに忘れてしまうこと、トイレが上手くできなくなっていること、全部がとても悲しいしとても不安なのだ。

ケアマネさんが奥様の大変さを思いやり、マツモトさんにリハパンを勧めた。
「嫌だ、私はまだやれる」そうマツモトさんは答えた。

ご本人の気持ちとご家族の大変さ。
どちらも大切にしたいからこそ答えが簡単には出せない。
もうとにかくこうしますよ!と、強行突破が必要な時にはそうすることもあるが、マツモトさんにはそれをしたくないな。
奥様も、ケアマネさんも、みんながそう思っていた。
だから、マツモトさんの決心を待つ、それがいいよね、となった。


デイサービスのお風呂の時間は、マツモトさんの気持ちの変化を手伝える貴重なチャンスだった。
リハビリパンツを履いている方を間近で見られるのだから。

なるべくリハパンを履いている方と脱衣所で隣り合うようにしているうちに、「それ、いつから履いてるの?」とマツモトさんが聞いたりするようになった。
手に取って触っていることもあった。

そしてある日の朝。
家族からの連絡帳にこう書かれていた。
「リハパン、履いてます。」

その日のマツモトさんのお風呂の時間に、タオルを取りに行くふりをしてお風呂場へお邪魔した。
ちょうど服を脱ぎ終えてパンツ一枚になったところだったマツモトさんは、
「ははは。ついにこうなっちゃったよ。」とリハパンの上からお腹をポンっとたたいてみせた。
泣き笑いの顔だった。

慰めも冗談も、言えなかった。
「そっか。履いたんだね。」と頷いたら、
「うん、履いたよ」と返ってきた。

「あったかいからお腹には良さそうだよ」
そう言いながらうつむいてパンツを脱ぐマツモトさんの目からポツッと涙が落ちた。

「そっか。あったかいんだね」とまた私は頷いた。
「うん、あったかいよ。いいもんだよ」とマツモトさんは脱いだリハパンを二つに畳んで丁寧に服の上に載せた。

涙を手で拭ってから介護士さんと手を繋いでゆっくりとお風呂場へ向かうマツモトさん。
「デートみたいだね!行ってらっしゃい!」と声をかけたら
「照れるなあ」とやっと笑顔になった。
ほっとした。


生きるって本当に大変ですね。
脱衣所でバスタオルの準備をしながら介護士さんが呟いた。









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