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インドで不登校期の回想録

こんにちは、ゆもです!
いよいよバングラ、ネパール、インドの3ヶ国周遊旅の後半戦。現在はインドのブッタガヤでホームステイしてます😌(笑)

気温は40℃(笑)

今回の旅の趣旨はこんな感じ↓


突然の回想録

ブッダガヤで不登校を悟る(笑)

ステイ先のベット

なんか、急に自身の不登校期の話が呟きたくなったため、書いてみることにした。いずれは書きたいと思ってたけど、いままで思い出すとしんどかったから、頭のすみに出来るだけそっとしておいてた

ただ今ブッタガヤの一家にお邪魔させてもらってて、布一枚の木造ベットに寝転んで思い浮かべた時、ずいぶん当時の記憶が過去になっていることに気づいた。もうざわざわして涙が出ることはないし、暗くなって萎縮するようなこともない。しっかりと、自身の経験のひとつとして、頭のかたすみで形成されていた。

当時の思い出がいっぱい詰まった家で書くより、日本から遠く離れたインドの田舎で書く方がよっぽど落ち着く。なんでこの機にちゃちゃっと呟こうと思う。これからどんどん脳内で色褪せていくであろうしんどかった当時を文字に留めておく作業であり、また現在進行形でどっかでしんどい誰かに届けたい想いでもあります。

先に言うけど、
ぜーんぶなるようになると思います。

ここに至るまでの経緯

まずちょー簡単に現在インドに居るまでの経緯を列挙します。
中2の夏、何かが切れる

何もすることができず不登校
家から出れず引きこもること2年半

そのまま中学通えず
高校は公立の通信制高校へ

週5/8時間のバイト生活
なんもしてない期

高1夏個人で2週間セブボランティアに行く
初ひとり海外

就職しようとしてた矢先の高3
突如大学受験を決意

1年間の猛勉強
この時拒食症が最悪

補欠の末尾でぎりぎり合格
第一志望の上智大学教育学科へ

拒食から過食への転換
大1冬スタディツアーでネパール

大2夏バックパッカーでひとりインド

再び学校(大学)とのバランス悪化
1年間の休学を決意

無事ネパールで20歳を迎える
世界周遊旅に挑戦中

…こんな感じ。こう列挙すると、全部思い出深くて延々と語れそう(笑)今回は不登校期の中学生時代をメインに呟きます!

不登校奮闘記

はじまりの回想

以前にも上記の投稿で呟いたのだけど、自分の不登校のきっかけはいじめといった外部の理由ではありません。自分自身とバランスの問題でした。
中1までは何不自由なく淡々と学校生活を送っていた私。勉強は好きだったからテストとか頑張ってたし提出物も凝ってた。学校行事にも積極的に参加するまじめちゃんだった(笑)私の公立中学は公立小からの繰り上がりで、お馴染みの子達との進学。クラスメイトは変わらなかったわけであるが、小学校から中学校への変化というのはかなり大きかった。
ひとつは成績。小学校までは成績というのは周りが褒めてくれる着火剤でしかなくて、頑張ったらもらえるご褒美みたいなものだった。それが中学校になると高校受験が前提になるから、成績の数字が一気にストレスなものになる。勉強による数字が自身のステータスになっていった転換だった。
もうひとつは先輩後輩関係。中学から部活動が始まり、小さな社会のレプリカによる模擬訓練が始まる。私は陸上部の長距離に入部。そこまで厳しい上下関係はなかったけど、顧問がガチめの人だったから練習がすごく大変だった。朝練で走って、放課後走って、休日も走って…毎日10km以上をグラウンドでぐるぐるしてて、相当肉体的にも負担をかけてた。部活とは社会空間に所属することで生まれる責任を知る過程だと思う。私はその責任に対しすごくクソ真面目に頑張っていた。

右から2番目が私の足(笑)

加えて12、13歳というのは成長ど真ん中な時期。私は生理が始まったタイミングが中1の夏だったから、この身体的な変化との混乱も大きかった。慣れないナプキンをつけて真夏のグラウンドを走る不快感とか、周りが徐々に男女に分かれて動きだすよそよそしさとか。肉体的精神的な思春期であり、全てに対していちばん敏感だった時期だった。

もうとにかく原因は、この思春期のつまずきという一言に限る。勉強と部活に全身全霊かけて精神をすり減らしてた日々。毎日走り続けてたのもあり、体はすごく痩せててまだ子どもだった。次第に生理が不定期になって、1ヶ月に2回来るようになっていて、その負担も増していた。

人生で初めてうまくいかなかった瞬間

私の中で記憶は写真や映像、かたちになって保存されている認識があるのだけど、その中で嫌でも時々思い出されてしまう当時の記憶の映像が2つある。

ひとつは部活の大会。私は長距離に入部したわけだが、理由は小学生の時に仲良しの子達と駅伝をやってたことにある。単純に楽しさから走っていたから、大会みたいなガチめのには興味がなかったし性に合わなかった。それでも部に所属し顧問がその意ならば、それに従わなくてはいけないのが責任というもの。その大会は順位がつけられる地区大会で、確か800m競走での瞬間だった。セット、、、ピストルの音とともにスタート。その日は暑い真昼で、赤茶色のグラウンドは照りつく太陽でじりじりしてた。私はこの時すでに肉体的にも精神的にも限界だった時。委員会とか勉強といった他のことに追われて、全然競技に打ち込めずコンディションは最悪だった。ぜえぜえ喘ぐ自分の声が聞こえる。足が重たくなって、視界には他の選手が次から次へと現れては前を遠く走っていく。この競走が自身が初めてビリ欠になった時だったのね。この時、初めてああ、どんなに頑張ってもうまくいかないことってあるんだなって思った瞬間だった。今までは何かやれば必ず100%で何かが返ってきた。勉強もやればできたし、それを当然だと思っていた。妥協を知らず、不完全をまだ知らなかった時。こんなに100%全力で勉強も学校も部活も頑張ってるのに、ビリになっちゃうんだ。うまくいかないことがリアルな人生を突きつけられた瞬間だった。最後の直線のダッシュ。暑さでグニャグニャ揺れてるグラウンドをぼうっと見ながらそれでも重たい身体を無我夢中で動かした映像として残ってる記憶。
その後の出来事。いつも競走が終わるとみんなで顧問の元に行って、一人ひとりコメントをもらってたのね。その日顧問は私だけにコメントをくれなかった。私の顔を見ることもなくみんなには一言行って去ってしまった。私はその場に泣き崩れちゃったのをよく覚えてる。なんでこんなにがんばってるのにうまくいかないの!?って周りが慰めてくれてる中、ひとりぼっちでしゃがみ込んで泣きじゃくったのを憶えてる。

もうひとつはまじでどうでもいい小さな瞬間なんだけど、自分にとって決定的だった瞬間のひとつ。ある放課後の帰り道での一コマ。中2の夏休み前の日だった。友達3人と私で一緒に帰ってて、なんかの話題になっていた。私は聞いてたんだけど何か別のことも考えてて違うふうにその話題を捉えてたのね。それに気づかなくて、ちぐはぐな感じでひとり会話に参加してた。その時に友達が「ゆも、何言ってんの?」って3人が顔を覗き込んできたっていう瞬間。本当にささいすぎる出来事だよね(笑)でも当時の私にはトラウマ並みに恐怖を植えつけられた瞬間だった。あのしんとなってみんながこっちを不審げに見てきた時、なんかすごく自分と外側の違いを感じたの。自分が思ってることと3人が話してることが違う。一緒にいたのにこの3人の会話が分からない、何故なのか、何で自分だけ輪の中に入れていないのかってパニックになった。私が限界になりながら頑張ってたことって全部学校とかの外側での活動。私が頑張っていることって、みんなと同じなのか、届いているのかってものすごく不安になったんだよね。私のことや考えや行動は私が思うようにみんなに認識されているのか。仲がいいと思っていたその目の前の友達とも急に距離を感じて、自分に膜が張られてる感覚になったの。

聞こえない!
みんなが言ってることが分からない!
ついていけない!解らない!、、もうパニック。

その時は笑って誤魔化してたけど、みんなと別れてひとり家まで歩いてた間は声をあげて泣いた。「疲れた」って言葉が浮かんで、次第にそれで頭がいっぱいになっていた。

“疲れたつかれたツカレタ”

何もしたくない、もう無理だって。本当にその時なにかがぷっつり切れちゃって、自分が見ている外側の世界が信じられなくなって怖くなった瞬間だった。膜がどんどん分厚くなっていって、否自分で分厚くしていって、自分の社交の扉を遮断した。限界だった13歳の当時の私による必死の自分を護るための防御反応であり、拒絶反応だった。

当時撮った写真

暗黒の遮断期

これが中学2年生の夏の出来事。実はそこからの数ヶ月の記憶がない一気に鬱状態になってしまって、記憶が断片的になってしまっているのである。
ひとつだけ、憶えてることがある。朝から晩までリビングのカーペットにうつ伏せで横たわっている記憶。何もせず、うつ伏せで、ぴくりとも動かず何時間もカーペットの毛並みを眺めている記憶。時間の感覚もなく、真っ暗な状態で、息はしてるけど、他の機能がシャットダウンしちゃってる。じっと見続けているとカーペットの毛並みがぐにゃぐにゃ動き出して、顔に見えたりしていた。何も考えていなかった。疲れすぎていた。

はけ出せない自身に対する怒り

こっから回復するのは本当に時間がかかった。高校含め3年はかかった。何よりも最悪だったのが、家族に八つ当たりをしたこと。家庭内をめちゃくちゃにかき乱した。私は家から出れなくなってたから、感情をぶつけるのが家族しかいなくなっていたのである。始めは完全な無だったから、感情が何も湧いてこなかった。けれどその底辺から徐々に浮上して湧いてきたのが怒りみんなが普段通り毎日学校に通っているのに、自分は家から出れずにいる。時間の流れに置いて行かれてしまって、戻らなきゃ追いつかなきゃと思うのにうまくいかないフラストレーション。それが涙となって自己への嫌悪となって、吐き出せない怒りとなって、矛先は家族に向けられた。毎日泣きわめく、物に当たる、とにかく言葉にならない怒りを叫び散らしてたよね。家族もパニックで父も怒鳴っていたし、母も自分のせいだって毎日毎日泣いていた。当時小6の妹は、そんなストレスいっぱいの家庭空間で健やかでいられるはずがない。常に隣の部屋からは私の泣き叫んでる声が聞こえてて、両親はそんな私につきっきり。妹も次第に不登校になった。私は妹が泣きながら「何で学校に行かないの!?」って言ってきた日のことをよく憶えている。

何で学校にいけないのか。
解らなかった。
私がわからなかった。私が教えてほしかった。
どうしたらいいのか、どうしたらこのしんどい日々から抜け出せるのか。
助けてほしかった。

でも家族も答えを知らなかったみんな解らなくて、助けを求めてた。お互いがSOS状態だったから、会話もちぐはぐ。話し合えば常にお互いの地雷を踏んでしまって誰かが泣いてしまうという状態だった。

トライアンドエラー

それでも本当に家族は辛抱強くいてくれたと思う。母はとにかく私を家の外に出そうと必死だった。パートも辞めて平日の昼間は私を外食に連れ出したり、いろんなフリースクールに連れて行った。児童精神科にも通った。抗不安剤や睡眠薬をもらったりしたけど、ぱっと病名を診断されたわけでもなく、継続してはどこも通わなかった。発達障害も疑ったけど、結局診断はされなかった。答えを求めていろんなところに彷徨う日々、私も母も誰かに助けてほしかったのだと思う。一時は母も血迷ってスピリチュアルなところに行こうとした事があって、そのくらい必死だった。けれどもほしい答えは見つからない。私にとってしっくりくる第三の居場所はない。結局は私の内側での問題であって、私自身でどうにかするしかなかった

地域のフリースクールはすぐに通わなくなったけど、学校のカウンセラー室には定期的に通った。でもそれも行けたり行けなかったりのぼちぼちだった。最初は学校の中に行くというのがハードルが高すぎて、本当に大変だった。
学校に対していじめといった残酷な思い出があったわけでもないのにね。いつしか学校は恐怖の象徴になった。親に引きずられて玄関まで行く。でもそっから家のドアを開けて外に出ることができない。ドアの前で動けなくなって何時間も泣いてることがよくあった。そのくらい、外に対して拒絶していたのである。

初めて学校のカウンセラー室に行った日
以前は毎日歩いてたくせに、学校の廊下は信じられないほど怖くて永遠と続く道のりになっていた。誰かに会ってしまうのが1番怖くて、わざとみんなが教室にいる授業中の時間を狙ってやって来た。はやくカウンセラー室に逃げ込みたいけど、教室とは別の棟だから場所が分からずうろうろ。すると爆音で授業の終わりを告げるチャイムが鳴った(当時私は音や匂いにすごく敏感になってた)。同時に遠くで一斉に生徒の声がする。私はパニックになって走って逃げ出した。隠れる場所を無意識に求めていた
不登校になって担任の先生と久しぶりに再会したのはその日。先生は心配で様子を見に来てくれたんだけど、彼女が見たのは避難器具の横にうずくまって隠れてる私の姿。その時の私を見た瞬間、すごくショックだったって後に担任は私に明かしてくれた。怯える野生動物みたいだったらしい。

教室にも何度か挑戦した。
特に中学3年に進級した時は、心機一転教室に復帰しようと思ってがんばった。遅刻しながらも何とか教室に入って授業に加わった時。自分の机は教室の真ん中にあって、私はぎこちなくそこに座ってみる。がやがやしたまわりの音と、みんなが同じ方向をみて座ってる異様さ。そして先生の話にみんなが一緒になって笑った瞬間。なんかここに自分の居場所がないなって悟った瞬間があった。なんかここで必死こいて頑張ってたことが馬鹿らしくなったんだよね。

何で学校に行かなきゃいけないんだ?
ここに私の場所はもうない、行きたくない。

学校に「行かなきゃいけないのに行けない」が「行きたくない」に変わった瞬間だった。その瞬間私はもう立ち上がって教室から逃げ出してて、あの日私は完全に学校という空間にNoを出した。元に戻れるかもという淡い期待は一瞬で消え去り、本格的なカウンセラー室登校になった。

処方箋は、諦めること。

時間に耐える。

時々、不登校にならなかったらって思う時がある。私はその後中学校に戻ることはなく、そのまま公立の通信制高校に進学する。そこでは日曜日だけ学校に通うスタイルだったから、平日はずっとバイトしてた。高校生らしいことを何もできなくて、もしあのまま中学に通って高校生になっていたらって後悔した時期もある。でもいま振り返ると、学校に行かず引きこもってたあの時間は自分にとって必要な時間だったと思う。明らかに当時の私は頑張りすぎていて、休む時間が必要だった。そして頑張ることが常に100%でしか出来なかった自身の性格を見直す時間だった。

現在しんどい本人やご家族に伝えたいこと。
それは何とかなるから焦らないでほしいこと。

学校はすべてではない。
前述したが、学校は単なる社会空間の小さなレプリカである。
現に私は約3年間何もしないで家に引きこもり続けたけど、今は大学に進学できたし、世界一周も始めてる(笑)確かに何も考えず進学校に通った子に比べれば、引きこもったハンデはあって、ー人一倍努力が求められる時もある。また一度底辺のメンタルを経験してしまうと、結構傷跡になってその後も引きずってしまう。一言でいうと、逃げ癖がついた。私も大学生になったら全部終わると思ってたけど、そんなことは全くなくて奮闘は続いている。でも、そのハンデから得た強みもあるなって私は思ってる。
学校での時間は平等で容赦な進んでしまう。けれど一人ひとりの成長にかかる時間というのは個人差があるから、焦らなくていいということ。私には私の成長の時間のプロセスがある。引きこもってた時期、私は本をたくさん読んだ。とにかく現実逃避がしたくて、ゲームをしたりアニメも見たよ。自分のうちに閉じこもって物語を書いたりもしてた。無駄な時間ってないと思う。でも閉じこもり続けることは不可能だから、外にでるためのエネルギーが再びたまるまでの待ち時間として捉えればいいんだと思う。

ご家族のかたはきっと焦ってしまうと思います。なんで本人が不登校になったのか、原因が知りたくてじれったいと思います。でも多分、本人もよく分からないんだと思います(笑)ただただ辛抱強く待ってみてあげてほしいです
例えば私の学校のカウンセラーさんは、私にたったの1度も「何で学校に行かないのか」と訊ねたことはなかった。ただよく来たね〜っていつも笑顔で迎え入れてくれて、天気の話とか雑談をしただけです。でもその探られない、現状の自分をそのまま受け入れてくれる態度が、当時は1番ありがたかった

唯一私が悔いているのは妹について。私が妹に与えた負のインパクトは大きかったと思う。不登校が家庭内で連続する傾向というのはある。私が自分をコントロールできなかったが故に、当時の妹をも不安定にさせてしまった。当時の妹は常に私の顔色を伺って、心配してビクビクしてて、自分のことは表に出さなくなっていた。それがどんなに彼女の成長のプロセスにとって害だったかは胸が痛くなる。謝ることしかできないけど、当時の私にとっては仕方がなかった。だから最近は感謝したいなって思っています。今はまだお互い自分を生きるのに必死だけれど、いつかお酒を飲みながら語り合える日がくればいいなって思ってる。その時は支えてあげたいなって心の底から思う。

答えを求めるのを、諦める。

最後に現在しんどい本人のかたへ
私が不登校から学んだ2つのことがあって、ひとつは答えを周りに求めないということ。当時の私もしんどくて、どうしたらいいのか教えてほしくて困ってた。でも親や先生も人間で、知らないことはある。多分、その求めている答えは誰も教えてくれなくて、自分で見つけていくしかないんだと思う。
でも人生の先輩たちは、必ずヒントは持っている。だからいっぱい助けは周りに求めていい絶対誰かは応えてくれます。なんか言ってほしかったことと違くてイライラするかもだけど、辛抱強く人生を問い続けましょう(笑)私もがんばりたいものです(笑)

そしていつかガツンと一歩踏み出さなくてはいけないタイミングが何度かある。その時は、何度逃げてもいいから繰り返しアタックしてみよう。逃げてもいいけど、どうせ逃げきれないから。自分がいっちばん知ってるはず。

完璧を、諦める。

もうひとつは以前の投稿でも呟いたんだけど、妥協の大切さです。これは完璧主義の当時の私が1番学ばなければいけなかった教訓でした。物事は本当に完全というのが難しい。常に何かを諦めて妥協して、バランスを見つけていかなきゃいけない適当にこなしていくスキルというのも必要だと感じます。思いつめなくても結局何とかなるものだから、気楽に行きましょう。妥協という言葉が私の座右の銘であり、いちばんみなさんに伝えたい言葉です。


だいじょうぶ!!!!!
私も無事にヒマラヤのふもとで20になったよ(笑)

、、、終りです(笑)今までで最長の呟き投稿になった気がする(笑)
ずっと溜めてたことだったから、書けてとてもすっきり!
最後まで見てくれた方、
本当に本当にありがとうございます。

まだまだ頑張りたいなって本当に思います。
旅も続けて、バランスを見つける、20代へ
奮闘記はまだまだ続きます
以上。




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