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緑の沼④【ホラー短編・全4話】

 それからブランドンは、仕事に取りかかる前に苔掃除をすることにした。だがそれは一筋縄ではいかなかった。なにしろ苔はあれから毎日のように、ウッドデッキを占領してしまったからだ。ここに来た時はそんなことはなかった。隅の方で申し訳なさそうに住処を作っていただけの苔が、いまや自分達の領域になったと言わんばかりにウッドデッキそのものを喰い尽くしている。一度侵入を許してしまったせいなのか。そんなことがあるのかと首を捻る。そういう種類の苔なのだろう。
 新種かもしれないと検索をかけたこともあったが、これといった情報は出てこなかった。それに、苔のことであまり頭を悩ませたくなかった。苔で頭を悩ませるのは俺自身じゃない、とブランドンは自分に言い聞かせた。それはブランドンの書く小説の主人公がすべきことであって、ブランドン自身のことではないと必死に言い聞かせた。
 だが、必死になって苔掃除をしても翌日には元通りになってしまっていた。
 一度は懐中電灯を持って外を照らしてみたが、誰かがうろついているということもなかった。辺りにあるのは苔と沼だけ。沼を照らしてみたこともあるが同じだった。あんな日記を読んだからか。それとも、小説の主人公にだいぶ感情移入してしまっているのか。
 そのうえ、更にブランドンの精神をかき乱すことが増えた。夜中まで執筆していると、突然、あの苔が落ちるような音が聞こえてくることがあったのだ。この静けさのせいか、幻聴のように突然響くその音を、無意識に外に向けられた聴覚が鋭敏に脳に運んでくる。くわえて、時折ぼちゃんという沼の音も響いてきた。その音が、いかにも沼から這い上がってくる怪物のように思われた。どれほど執筆に集中しようとだ。イヤホンで耳を塞いでしまうことも考えたが、音楽を聴いていては執筆に集中できない。悪循環だった。
 ――クソッ、あの苔が!
 ブランドンは心のままに、主人公の台詞を走らせた。

 そんな日が続いたあと、ブランドンはくたくたになっていた。
 ふと寒さで気がつくと、あたりは真っ暗になっていた。暗闇のなかでノートパソコンの光だけがパカパカと点灯し、スリープモードになっている。そういえば小説が進まなくなり、パソコンを横に追いやって机に突っ伏したのだった。そのまま眠りに落ちてしまったのだ。部屋の中はすっかり冷え切っていた。あまりに体勢が凝り固まっていたせいか、体を動かすのにも苦労した。
「いたた……」
 肩を少し回して、現状を確認する。パソコンのスリープモードを解くと、既に深夜二時をまわっていた。
「あちゃあ」
 いったいどれだけ寝ていたのか。根を詰めすぎたようだった。苔のことであまりに頭を悩ませたせいだろう。あれほど指が動いたというのに、またこんなところで煮詰まるなんて。
 少し、落ち着くための時間が必要だ。
 ブランドンはどうしてこのコテージに来ることになったのかを思い出していた。もともとは休養のためだ。これだけ書けたのもある意味奇跡のようなものだと自分を納得させる。一旦シャワーでも浴びて、今日はゆっくり寝てしまおうと思った。
 データを保存し、パソコンの電源を落とす。廊下に出ると、手探りで灯りをつける。二階の電気さえつけておけば下にはおりられるはずだ。そろそろと階段をおりる。あの苔のせいでどうにも調子が良くない。いったい明日の朝はどうなっているだろう。窓に近づこうとして、ブランドンはぬるりとした感触を覚えた。マットのあるはずの場所が、濡れている。蒼白になって、慌てて後ずさると、手探りでスイッチを探して一階の電気を点けた。オレンジ色の光がリビングを照らし出す。スイッチのところからではソファの背中しか見えない。もういちどそうっと近づいていくと、ふかふかだったマットが緑色に汚れてしっとりと濡れているのが目に入った。そのときのブランドンは血の気が引いたような顔をしていた。べちゃっと音をたてながらカーテンを開ける。外は暗く、わからなかった。パニックになったようにとって返し、しばらく呆然としてからようやく懐中電灯を探し出した。
 ウッドデッキを照らすと、そこは緑の苔に覆われていた。テーブルの上面までもが緑の苔で覆われている。ブランドンは勢いよく窓を閉めた。

 ウッドデッキを我が物とした緑の苔は、窓を通り抜けて部屋の中にまで侵入してきたのだ。思わずたたらを踏んで部屋の中に戻る。あたりを見回す。玄関から外に飛び出そうとしたが、玄関先も不快な緑色に塗れていた。玄関のマットは不快な音を立て、開けた先のデッキを照らすと、そこにも緑色が侵食していた。昨日まではこんな風ではなかった――少なくとも昨日までは。
 むっとした臭いが鼻をつく。生臭いような、何かが腐敗したような臭いだ。こんなものは苔からしないはずだ。それなのに。あまりの臭いに、ブランドンは玄関を閉めて籠城を決め込んだ。これ以上あんなクラゲのような苔にコテージを侵食されてはたまったものではない。
 ――明日。明日だ。明日になったら掃除屋に連絡するんだ。どこでもいい。高圧の洗浄機で一気にこいつらをこそげ取ってしまうだけの優秀な掃除屋が必要だ。ここから一番近くて、一番早く来てくれるところ。そこに頼むんだ!
 そのときだった。
 ベチャッ。
 不意に響いたその音は足元からではなかった。外から聞こえてきていたのだ。苔が自ら落ちたのかと思ったが、違った。それは規則的に、あるいは近づいてくるように、どこからともなく聞こえてきた。
 コテージの周りを何かが囲っている。
 頭の中で、事故死した男の日記がぐるぐると回った。沼から出てくる怪物の姿をイメージしてしまう。ブランドンはそのイメージを振り払おうと、必死に頭を振った。そんなものは妄想だ。そんなくだらないものは、くだらない小説の中にしかいないものだ。そう自分に言い聞かせる。あまりに精神が鋭敏になりすぎて、物音に過剰に反応してしまうだけだと、必死に言い聞かせた。
 ベチャッ、ベチャッ。
 だがそれに反して、音はあちこちから聞こえてくるようだった。窓のすぐそばで、それは聞こえた。ゆっくりと、反射的に窓に懐中電灯を向けた。窓に、ドンッ、と殴られるような音を立てながら苔が張り付いた。殴られたように、拳状の緑の汚れが二つ。呆然と懐中電灯で照らしたそこへ、ぬっと窓のすぐそこに歪んだ人型の緑色が見えた。
「あ、ああああ……!」
 ブランドンは自分でもひどく情けない声が出たのを聞いた。
 ――違う。違う! こんなものは幻だ。根を詰めすぎたんだ。俺の夢だ。夢なら覚めろ、しっかりしろブランドン・ホーニング!
 たかだか苔じゃないか。
 たかだか死んだクラゲのような、海藻のような苔だ。
 ベチャベチャするだけで何もない、なにもできやしない。
 そんなものが歩き回ってこのコテージを囲んでいるはずがない。
 そのとき、突然ブツンと音がして部屋の電気が消えた。一気に暗くなる。懐中電灯だけが辺りを照らしている。
「な、なんだ?」
 こんなときに電気がショートでもしたのか。
 嫌な予感がする。慌てたように懐中電灯を頼りに、スイッチの元までたどり着く。何度スイッチを押しても電気は点かなかった。最後には躍起になってスイッチを押したがダメだった。
「ちくしょう!」
 壁を殴りつける。もしかして外を歩き回っている苔が、配電盤にまで到達したんじゃないか。
「あいつか、それとも仲間がいるのか……」
 ベチャベチャ。バチャバチャ。
 外からの音が強くなってきている。苔が、あるいは苔の怪物がうろついている。このコテージを取り囲み、どんどんと扉や窓を叩きつけ、入ってこようとしている。もはやブランドンは何かがいることを疑ってはいなかった。パニックになったまま、懐中電灯で物置までたどり着き、中のものを探った。
 嵐でもないのにみしみしとコテージが軋む。ベチャベチャ。バチャバチャ。
 デッキブラシを手にして、地面を叩く。音はやむ気配が無い。舌打ちをしてデッキブラシを放り投げ、物置の中を更に漁る。ホウキもバケツも役に立たない。銃はどこにしまってあっただろう。真っ白になりかけた頭の中で、何か無いかと探る。少しだけ呆然としてから、はたと気がついた。
 ベチャベチャ。バチャバチャ。
 ブランドンはすぐ近くで聞こえる音にせき立てられるように、キッチンにとって返した。引き戸を開けようとして、汗で滑る。顔を顰めながら服で手汗を乱暴に拭き、引き戸を開ける。中のものを引っかき回した末に、半分ほど入ったオイルを手にした。それから抽斗を勢いよく開けて――勢いよく開けすぎて、下に中のものをぶちまけてしまった。だが構っていられなかった。ガスライターを探し出して手にすると、二つを持ってリビングに戻った。
 ベチャベチャ。バチャバチャ。
「クソッ、クソッ! 見てろよ、化け物め!」
 高揚するままにオイルの蓋を開こうとして、手が震えているのに気付いた。冷静なつもりでも体はそうではない。苛々する。
 ベチャベチャ。バチャバチャ。
 ベチャベチャ。バチャバチャ。
 ベチャベチャ。バチャバチャ。
「お前たちなど要らない。必要ないんだ。俺の物語にお前たちなんか!」
 オイルの蓋が開いた。蓋を落とし、中身を一気に部屋にぶちまける。ビタビタと液体が落ちる音がした。あとは火をつけるだけだ。ガスライターを手にして、オイルを撒いた場所に近づこうとしたそのときだった。
「あっ」
 ぬるりとした感触に足をとられる。周囲からではなく下から来たと思ったときには、ブランドンの体は苔にまみれた床に背中から叩きつけられていた。痛みに上半身を動かそうとして、ぬるぬるとした床に腕を取られた。なんとか見回すと、落ちた懐中電灯が床の一部を照らしている。床は緑色に染まっていた。一気に下から生えてきたのか。
 ガスライターも取り落としたらしく、ブランドンはそれらしい場所にやみくもに手を動かした。何度かぬるりとする床を叩いてもそれらしいものが無い。懐中電灯に手を伸ばそうとして、不様で滑稽な姿で床を這いずった。せっかくの服が、緑に染まっていく。もう少しで懐中電灯に手が届く。懐中電灯の堅さに指が触れたとき、これほど頼れるものは無いと思った。
 だが、その腕を飲み込むように苔が覆った。
「ひっ!」
 その冷たくぬるぬるとした感触に、思わず手を振り払う。
 それは腕だけではなく、足もだった。
「ひい、ひいいっ」
 足の苔を振り払おうと、なんとか足を動かす。だが、ざわざわと全身を苔に苛まれていく。苔が覆っていく。重みを感じる。まるで苔まみれの人影にのしかかられているようだった。いや、これは人影だ。苔の怪物なのだ。それとも、この苔の怪物自体がブランドンの妄想なのか、もうわからなかった。どっちでもよかった。ブランドンは自分でもバカみたいに必死になって、自分の体についた苔をむしり取っていった。それでも足りなかった。喉からはひぃひぃと情けない声しか出ない。
 ぬるりとした感触がシャツの中にまで張り付き、口の中に入ってこようとする。吐きそうな臭いがすぐ近くで漂っている。口の中がぬるぬるとした海藻のようなもので埋まり、喉の奥に入ってこようとする。耳からも、鼻からも、ありとあらゆる肌を塞ぎ、穴から入り込んでくる。沼のような臭いだ。やっぱりこいつは沼に潜んでいた怪物だ。沼の苔はみんなこの怪物だったのだ。前の男は正しかった。
 ――俺は死ぬのか?
 やがてブランドンは目の前で、緑色の苔にまみれた怪物が、にんまりと笑うのを見た。

 了

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