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緑の沼③【ホラー短編・全4話】

 パラパラとページをめくり、軽く読めそうな部分に目を通す。いくらかそんなことを繰り返すと、この事故死した人物の――おそらく男の――ことがなんとなく察せられた。男は精神を病み、療養のためにここへ越してきたのだ。文字は角張ったような神経質そうな字で、これを書いた人間の精神性がそのまま投影されたかのようだ。年齢はブランドンより年上と見え、だいたい中年くらいを想像してしまった。うだつの上がらない、陰鬱な表情をした神経質そうな男。骨張った手がこの本に角張って妙に堅い文字を書き込んでいくところが容易に想像できる。

『六月三十日
 町で買い出し。
 昨日書いておいたメモはすべて購入。
 あの町はいい。人に対してあれこれ詮索したりしないし、みょうになれなれしく喋りかけてこないのが安心できる。田舎の町に見えて、その実、観光客に慣れてるんだろう。気に入ったワインも無くなったので追加で買い足した。あそこのワインは比較的飲みやすい。気に入ったワインはメモしておくべきだな。この間、間違えて瓶をゴミに出してしまったのはもったいなかった。ただ、量はセーブしておかないと。今度、先生のところに行く時に持っていくと喜ばれるだろうか。
 あとのことといえば、やはり夜に聞こえてくる音だけだ。あの音はどこからやってくるのだろう。このコテージも、苔とあの音さえ無ければ快適なんだが。眠れない不安な夜にあの音を聞くと、まるで何かが苔を振りまいている妄想に駆られて余計に眠れなくなってしまう。昨日もスマートフォンを見て気を逸らしながら気絶するように眠った。あまり薬も増やしたくない……。

七月一日
 なんてことだ!
 まさか薬を一種類、どこかになくしてしまうなんて……。胃薬なのが幸いだが、いったいどこで無くなったんだ。薬の整理をしたのは昨日だ。きっとそのときに手から滑り落ちたのだ。少し探してみたが、風呂の時間になってしまった。これではもう探せない。薬のおかげでなんとか落ち着いてはいるが、胃を悪くしないといいんだが。病院に行く予定は一ヶ月後で、二週間分の余裕はあるから薬をもう一粒飲んでおくか。でもそんなことをしたら、ただでさえ十三日分になったのに減ってしまうし、もし見つかった時にまた十三日分になってしまう……。十三はだめだ。不吉だ。縁起が悪い。今日はもう寝よう。

七月二日
 昨日、無くしたと思っていた薬を拾った。ソファの下に落ちていた。どうして昨日見つけられなかったんだ。でも、これでまた二週間ぶんの余裕が返ってきた。いくら余裕があるといっても、十三日分だと妙に落ち着かなく感じるのは事実だ。でも昨日ほど混乱していない。ようやく安定を取り戻してきた。残念だが、やっぱりまだ薬は必要不可欠だな。先生はいずれ薬を抜いていくといっていたが、その頃にはマシになるだろうか。
 いずれにせよ、これも掃除のたまものだ。ウッドデッキに苔がすぐ生えるのが困りものだったが、掃除の習慣がついたのには感謝しておこう。こういうことがあるのなら部屋を一日一度確認してみるのもいいかもしれない……。

七月三日
 苔の掃除にもだいぶ慣れてきた。新たなルーティンを増やすのは抵抗があったが、苔の方も毎日同じように生えるものだから、すっかり朝のルーティンに組み込まれてしまった。結果的に私にとっては助かっている。苔の成長の早さには目を見張るものがある。それにしても、以前、日本で流行っているという盆栽なるものを見せてもらったことがあるが、あれとは大違いだ。ここに生えている苔はグチャグチャで、おまけに臭いもひどい。おまけにあの不快な音ときたら! 相当大きなカエルが住んでいるとみたが、実際に見たことはない。あの音がときどき私の精神を不快にさせるのだ。どうにかならないものか。カエルに効く毒か、とっ捕まえるしかないのか。よく考えれば、音がした後に見たっていないのはわかりきっているんだが……。』

 ブランドンも同様に精神的に参ってしまってここに来たといえるのだが、その混乱ぶりに関していえばその比ではなかった。ただ気落ちしたというでなく、心療内科あたりで診断がつくようなものかもしれない。男は摩耗した精神をここで回復させることを望んでいたが、うまくはいかなかったようだ。

『七月七日
 あのぼちゃんという音――あれが近づいてくる。そんなものは妄想だ。私の妄想。頭の中にしかいないのだ。夜中にコテージの周りを徘徊しているあの大きな人影……。いや、そんなものこそ私の妄想だ。妄想を追い出すべく沼を覗いてみたが、魚のようなものはいなかった。カエルもだ。思えばこの沼には他の獣も近づいていない。人間の気配があるからだろうか。でも、鳥さえいないのはおかしい。やはりあの沼には何かいる。それとも、ここには本当に何もいないのではないか。あれ以外には……。

七月九日
 薬を飲んで気絶。
 後のために覚えているところを書き出す。苔が広がってきていた。気がつけば反対側も苔が近づいてきていた。床どころか壁にまで張り付いて醜悪さを晒していた。掃除の時間に間に合わず、あまりのことに一瞬パニックになってしまった。薬を飲んで気絶していたようだ。気がつけば翌日になっていた。いったい薬を何個飲んだのだろう。
 だめだ。苔が私を覆い尽くすような気味の悪い妄想ばかりしてしまう。いや、本当に妄想だったか? 掃除中にしたあのベチャベチャという不快な音は、まるで汚染された茶色い泥に手を突っ込んでかき混ぜるような音は、私の頭の中から響いているのか、それともあいつの音なのか。

七月十二日
 あの影は日増しに近づいてきている。
 昨日はずっとコテージの周りを歩き回っていた。
 いずれこのコテージを取り囲み、私を食い荒らすのだ。
 あれは苔の怪物だからだ。ようやくわかった。あれは苔だ。
 違う。こんなものは妄想だとわかっている。どこまでが私の妄想なんだ。
 あいつは苔だ。苔が私を覆っていく。』

 日記が進むにつれて、男の精神はますますすり減っていくばかりだった。
 ――……苔?
 確かにこのコテージは苔に侵食されつつある。
 ――なるほど、苔か。
 そういえばこのコテージのウッドデッキも、二、三日手を入れなかったらすっかり不快な緑に取り囲まれるほど苔が生えてしまった。たぶん、季節や気候の関係でコテージにまで苔が生えるのが早いんだろう。もしかすると以前の住人たちも、それが嫌でこのコテージを売りに出したのか。おおかたそれで合っているだろう。
 だがこの環境は、気の萎えた男にとっては重大なミスだったに違いない。生え続ける苔にさえ心を乱されるほど精神を病んでいたのだ。あの苔は確かに不快だ。そんなものを恐れ、混じり合い、そして最後に……。
 ――沼での事故とは聞いていたが、そうか。沼から出てくる苔の怪物か。面白くはあるが、発想自体は陳腐な妄想だな。
 そのまま日記をしまおうとして、不意に頭の中になにかが浮かび上がってきた。
 ――いや。いや、待てよ……。
 沸いてきたイメージは映画のように鮮明に告げていた。緑色の沼、その近くに建つコテージ、精神に異常をきたした男。沼をびっしりと覆う苔に執着し、ますます精神は摩耗し荒んでいく……。
 イメージをすぐにでも書き留めるべく、ブランドンは近くのメモ用紙に書き殴った。それから急いで廊下に飛び出ると、鞄のなかで忘れ去られていた仕事用のノートパソコンをひったくった。いまなら筆が、もといキーボードが進みそうだった。
 それからというもの、ブランドンは暇さえあればこの舞台をどうすべきかこねくり回した。
 主人公たる男は、都会でのありとあらゆる不運を背負って精神を病んだ結果、療養のために古い町へやってきた。いや、むしろ決定打があったはずだ。それはきっとこの主人公の職業に関係があることだろう。きっと決定打があれば、職業もおのずと決まるはずか。ブランドンは少しずつ主人公の造形を整え、メモに書き付けていった。パソコンを起動させ、ここのところついぞ開いていなかった執筆用のアプリを開く。新しく書き付けられる瞬間というのはいつも心躍るものだったはずだ――ホラー小説を除いては。
 そうだ、忌まわしい怪物など出してやる暇は与えない。そんなものは必要ではない。そんなものはこの物語に存在すべきではないのだ。どんな物語に着地するにせよ、怪物だの超常現象だのに譲ってやる文字は無いのだ。
 ブランドンはそのままキーボードの上で指を踊らせた。

 それからブランドンは二日ほどパソコンと向き合い続けた。これまで仕事から離れていたのが嘘のように指はよく踊ったし、文字が画面を埋め尽くしていった。文字数はとめどなく上昇していったし、自分でも面白いくらいだった。
 二日目の夜にコンラッドから再び電話が掛かってきて、ブランドンはようやく外に意識を向けられた。
『先生、ワイン届きましたよ。ありがたく飲ませていただきますね』
「そりゃ良かった。そっちはどうだい?」
『ぼちぼちですね。……というか、なんだか浮かれてません? なにかいいことあったんですか』
「わかるかい。いま、新作に着手してるんだ」
『へえ!』
 なんともいえない返事だった。
「へえ、ってことはないだろう」
『いや、びっくりしたんですよ! だってあれだけ書けないって言ってたんですからね。そうですかあ……』
 感慨深げなその声は嘘はついていないようだった。
「気分転換が良かったんだろうな」
 それからブランドンは少しじらしてから言葉を続ける。
「それとも、やっぱり何か見つけさせるためにこっちに送り込んだのか?」
『まさか! 何度も言いますけど、僕はそんなつもりでそこを推薦したわけじゃないですよ。それに、いま残ってるものってあるんですか?』
 コンラッドの口調からはなにも探れそうにない。
 これは本格的になにも知らないようだ、とブランドンはようやく納得した。
「まあとにかく、いい気分転換になったのさ」
『そうですか、それは良かった……、でも、無理は禁物ですよ』
「わかってるよ。期待するようなホラーじゃないが、読めるところまで出来たら送るよ」
『いいですよ。通るかは確約しかねますけど、それで先生の筆が戻ってくるなら』
「その言葉、あとで後悔させてやるよ」
『期待して待ってますよ』
 今度こそ、コンラッドの声に期待がこめられたのを聞くと、ブランドンは不敵に笑った。この編集者と、こき下ろした読者どもをぎゃふんと言わせなければならない。
 ――でもさすがに集中しすぎたな。
 食事をとっていないわけではないが、軽く食べるに留めていた。そういえば、苔の掃除もしていない。もしかすると、ウッドデッキが苔だらけになっているかもな――なんてことを思いながら、翌朝になって、ブランドンは三日ぶりに一階のカーテンを開いた。
 ぎょっとした。
 予想してはいたが、実際にウッドデッキが苔に覆われているのを見ると、ぞっとするものがあった。確かに掃除はしていなかった。けれど前回よりもずっと早く、苔がウッドデッキを侵食している。どろどろと溶けたように見えて、古いSF映画にあるような、得体の知れない光線でも受けたみたいだった。
「なんてこった」
 おどけるように口に出すと、窓を開けてみた。
 もはや足の踏み場もなかった。
 湿った、陰鬱な臭いが鼻をついた。靴のつま先でちょいちょいとウッドデッキの苔をつつくと、ぶにぶにと堆積した苔が蠢いた。思わず顔が引きつるのを感じた。視線を巡らせると、ウッドデッキのテーブルの足元まで苔が覆っていた。テーブルの上面だけが、まるで取り残されたかのように虚しく木製の色を晒している。このままじゃみんな腐り落ちてしまう。どうにかしなければ。
 ぼちゃん。
 急に響いた鈍い水音にハッとして、沼を見る。沼は陰鬱に広がっていた。そこに何かがいるわけでもない。ただ波紋が広がっている。日記の文言が頭によぎった。苔の怪物。
 まさか。あれはただのカエルか何かだろう。けれども波紋が妙に大きい気がした。いつまでも波が残り続けるほど巨大なカエルがいるだろうか。いや、知らないだけできっといるのだ。怪物なんてものはいないし、要らないのだ。
 このままじゃ高圧洗浄機でも使わないと、全部は取り切れない。でもいま、せっかく仕事に集中できているのだ。この機会を失ってしまっては、また陰鬱で質の悪いホラー小説に逆戻りしてしまう。ブランドンはひとまず物置からデッキブラシとバケツを取り出してきた。海藻の出来損ないのような、あるいは浜に浮き上げられたクラゲのような苔をウッドデッキから追い出していく。そのたびに地面からベチャリ、ボトリ、といやな音がした。緑色に塗れたウッドデッキを見ると、ため息のひとつもつきそうだった。ここに来たときは綺麗だったのに、どうしてこんなことになったのか。ようやく足の踏み場ができた頃にウッドデッキに下りて、端の方へと落とし始める。ふとコテージの方を振り返ってみると、壁にも張り付くように苔が付着しはじめていた。掃除をしていた手が止まる。
「……マジかよ?」
 こんなところにも張り付きはじめていたのか。まるで苔の怪物が、入り口を探してべちゃべちゃと手で探ったみたいだった。嫌な妄想をしかけたところで首を振る。
 ――だめだ。そんな気味の悪い妄想は……。
 コンラッドの、あるいはたちの悪い読者の思うつぼだ。
 だがこんな状態では、確かに精神状態が悪化するのも頷ける。前の住人はただでさえ精神的に参っていて薬も服用していたようだったから、そこから更に悪化してしまったのだろう。これからは毎日欠かさず掃除した方がいいかもしれない。だが、壁についてしまった苔を落とすのは骨が折れる気がした。そのうち業者に連絡して、高圧洗浄機で一気に剥ぎ取ってもらうべきか。
 ため息をこぼした所へ、ベチャリと急に音がして一気に肝が冷えた。端の方へよけておいた苔が重力に逆らえずに、自然と土の上へ落ちたのだ。だが、それがあまりにもこっちに近づいてくるような音に聞こえた。
 ――……怪物じゃあるまいし。
 妙にドクドクと鳴る心臓を落ち着かせ、ブランドンはウッドデッキを構え直した。残った苔を落とし始める。ベチャリ、ボタリ、ベチャッ。苔は相変わらず不快な音を立てて落ちていく。あるはずのない視線を感じてしまいながら、ブランドンはできるだけ苔を剥ぎ取っていった。


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