見出し画像

ウォーターベイビー【怪物ホラー短編】

 素晴らしい家だった。湖畔にほど近い家は二階建てで、白い壁紙は染みひとつ無い。前の住人の家に対する心配りを考えると幸運なほどだ。妻のジェシーを伴ってここにやってきたとき、本当に来て良かったと思った。ジェシーは普段より少しだけ大人しかったが、それで充分だ。彼女には気分転換と療養が必要だと僕は確信していた。
 時が哀しみを癒してくれるなどという言葉は、戯言にすぎないのだ。
 最近のジェシーを見ていると殊更にそう思う。僕だってこの哀しみをどう癒せばいいのか、そもそも癒えるものではないのかもしれないと思い始めてきた。

 一人息子のベニーが亡くなったのは半年前のことだ。本当ならもうすぐ一歳になるはずだった。リンゴのように赤いほっぺたの、可愛らしい天使のような子だった。僕たちのはじめての子供で、宝物。彼はたちの悪いインフルエンザにかかって、高熱が下がらず病院に向かっている途中で死んだという。僕がちょうど自分の病院で医者として勤務しているときだった。ちょうど混雑した渋滞にはまってしまい、車の中で咳や小さな声が聞こえなくなっていったという。妻のジェシーは必死になって小さな命をつなぎ止めようとしたが、病院に着いたときには、医者たちの懸命な処置にもかかわらずもう灯火は消えていた。慌てて運ばれた病院に着いたときには、ジェシーのひきつった泣き声がロビーにこだましていた。悲壮な空気が漂っていた。いまでもその声は脳裏に焼き付いている。
 ジェシーはそのことをずっと気に病んでいた。最初のうちは泣きはらし、自分を責め立てた。責めるのをやめると、今度はなにかを忘れるように仕事に打ち込んでいった。まるで失ったものを埋めるように、ありとあらゆる時間を動き回ることに専念した。体力がついていかず、心身ともに疲弊しているのが見てとれた。まだ哀しみも癒えていないというのに、今度は体を壊してしまうのではないかと思った。三ヶ月経ってもその状態が続き、僕は彼女に転地療養を勧めることにした。医者としてでもあるが、僕個人の考えとして。自分が内科医であるくせに、子供を救えなかったのは僕の責任でもあるからだ。どこか空気の良い、ここではない場所で過ごした方がいいと思った。僕は僕自身の言葉に従うことにした。
 この町を選んだ理由は二つだ。ここではないどこかにあり、のどかで空気の良い場所であること。
 町は比較的新しい作りだったが、西部開拓時代の面影を残していた。以前に大火が起きて昔の建物が無くなってしまったらしいが、当時の雰囲気を復活させようとしたらしい。新しい建物であっても開拓時代風の建物にすることを決めたせいか、大通りの銀行もレンガ造りにされていた。町に複数ある酒場も当時のサルーンの雰囲気を残していて、町全体がゴールドラッシュさながらの活気に溢れている。近くには大きな平原があり、その昔はインディアンの居留地になっていたという。インディアンとひとことで言ってもいろいろな部族がいるが、そのなかでも主流な部族が住んでいた場所だ。つまりは僕たちがインディアンと言われて想像するそのままの姿の人達だ。原住民の血を引く人々も、最近ではさすがに当時のような暮らしはしておらず、現在では町で酒場や牧場を営んでいるという。少し騒がしかったかとも思ったが、どことなく朴訥とした空気もあり、結果的には良い環境であるといえた。

「いい家ね」
 ジェシーはそれだけ言った。
 既に大きな荷物は運び込まれていて、あとは車で持ってきたものを入れるだけになっていた。前の家にあったものも少し整理したので、リビングも必要最低限でシンプルな作りになっていた。このシンプルさが良い。ジェシーは少し不満があったようだが、結局は納得したようだった。それに、あまり子供を違式させるようなものも無い方がいいと思ったのだ。これはジェシーのためでもある。
「すぐ近くに湖があるのね」
「ああ。いいところだろう?」
「ベンチがあるのが見えるわ。少しは整備されてるみたい。人はいないけど……」
「うん。町のほうは少し騒がしいかもしれないけど、このあたりは静かでいいね」
 僕の言葉に、ジェシーはなにも言わなかった。
「町までは歩きでも行けそうね」
「そうだね。古いけれど新しい、いい町だ」
「ここなら仕事もありそうね」
 僕は途端に暗澹たる気持ちに包まれた。ここに来たのは療養のためであって、新たな拠点にするつもりはないからだ。
「それはきみの気持ちが癒えたらにしよう、ジェシー」
「デミアン、私は……」
「僕たちはきみの休養のためにここに来たんだよ。きみの新しい仕事を探すためじゃないんだ。まずはしっかりと休んで家にいなきゃ」
「デミアン」
「きみのためなんだよ、わかってくれ。まだ悲しいのはわかる。だけどあのままではきみの体がもたないよ」
「……」
 彼女はなんとも言えない表情で笑った。
「幸い、ここではきっとゆっくりできるさ」
 僕は彼女の肩を叩いた。
「……そうね。こんなところでは、湖のほとりで本を読むくらいしかできないかも」
「それがいいよ」
 軽く彼女の髪の毛にキスをする。
「でも今日のところは、荷物の整理をしないとね」
「そうだな。きみのも僕が二階に持って行くから、きみはキッチンを。仕事が欲しいなら、ついでにコーヒーをいれておいてくれると嬉しいな」
「わかったわ」
 僕はジェシーがキッチンに入っていくのを見ながら、二階に向かった。
 時が悲しみを癒してくれるなどと無責任に言えるのは、結局当事者ではないのだ。
 ベッドはこの家に残されたものをそのまま使えそうだった。僕の仕事が不規則になりそうなことkもあり、部屋は別々にしていた。本当は一緒にしたかったのだが、こればかりは仕方ない。前の家でも同じ理由で別々にしていたし、これについては僕も異論はなかった。彼女の眠りを邪魔したくないのもあった。僕は衣服や荷物をタンスの中に入れてしまうと、一階に下りた。そのときにはジェシーがコーヒーをいれてくれていたので、二人で休憩にした。
「さっそくだけど、僕は明日から仕事に行くよ。きみは大丈夫かい? 急だったからね」
「ええ。大丈夫」
 この町に来たもうひとつの理由。
 それが、ちょうどこの地区にある病院から、僕の勤める病院にとある依頼が舞い込んできたことだ。この小さな町にも意外なことに病院がある。そこで長いこと働いていた内科医のひとりが病魔に冒され、治療に専念することになったという話だった。だが、欠員の代わりがなかなか見つからない。それで数ヶ月でいいから、誰かひとり寄越してくれないかという話だった。僕はそれを聞くと、これ幸いとばかりに役目を引き受けた。町は療養に申し分なく、僕もしばらくの間の仕事先がある。これほど偶然に感謝したことはない。そういうわけで、僕は急いで引っ越しを決めたのだ。急な引っ越しにもかかわらず、これほど素晴らしい家を手に入れることになるとは夢にも思わなかったが。本来ならジェシーを置いていくのは気が引けたが、ジェシーは大丈夫だからと気丈に笑った。本当に大丈夫だろうかと思ったが、こればかりは仕方ない。すぐ隣に湖があることも少し気になったが、僕はあの大きな水たまりについてはほとんど考慮していなかった。
「休みになったら、一緒にご近所さんに挨拶に行こうか」
「ええ。そうしましょ」
 彼女は頷いて、僕を送り出してくれた。
 もしも彼女がこの町を気に入れば、正式にここで勤めるのも良いと思った。

 翌日になって病院に着いて挨拶をすると、みな歓迎してくれた。小さな町と聞いていたが、患者はそれなりにいた。忙しいが充実した日々が始まった。田舎ではあったが、みな良い人たちばかりだった。ここにいる人はほとんどが入植者――他の地域からやってきた人々ばかりで、ほとんど仲間のようなものだった。何日かして仕事に慣れてくると、食堂で一緒になった同僚が尋ねてきた。
「やあ。どうだい、調子は」
「悪くないよ。なかなかいいところだね。借りた家も申し分ないし」
「へえ。このあたりはみんなフロンティア風だからびっくりしたろう?」
「いや、僕が借りた家は違うよ。近くに湖があるだろう。あのあたりの家を借りたんだ」
「ああ、あそこか! それなら、時代がかってないな」
 彼は笑って続けた。
「この町自体が観光地でもあるからな……、俺みたいなのは逆に湖の方が新鮮に映るよ。うるさい観光客もいないし。昨日も帰り際に寄ったんだが、あそこは農場もあるだろう?」
「あるみたいだな。でもまだ散策できてなくてね」
「それはもったいない! そういえば昨日、普段見かけない金髪の綺麗な女性がいたけど、もしかしてあれがきみの奥さんだったりしてな」
「金髪か。それならジェシーかもしれないな……」
「ええ? ジョークのつもりだったんだけど。ああ、それと小さな子供を抱いてたな。赤ちゃんくらいの」
 赤ちゃん、と聞いて思わずぎくりとした。
 僕たちが子供を亡くしたことは言っていない。
「それじゃあ、たぶん……違うよ」
「ふうん。残念だな」
 彼はそれ以上聞いてこなかった。
 僕もなにも言わなかったし、言うようなことじゃなかった。説明して変な空気になるのも避けたかった。ただその日の僕は少しだけいやな気分になって家に帰った。人違いであっても、ジェシーが小さな子供を抱いていたかもしれないと考えると胸がざわついた。そのせいかどうか、家の中が少しだけ湿気ているような気さえした。
「お帰りなさい、デミアン」
 ジェシーはすぐに出迎えてくれた。
「あ、ああ。ただいま」
「どうしたの?」
「いや、なんでもないよ」
 ジェシーの様子は普段とあまり変わらなかった。ただいつものように――前の家でのように――夕飯ができてるわ、とだけ言った。僕は頷いてジャケットを脱いでハンガーにかけたが、小さな子供を抱いていた、という言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。きっと人違いだ。そうに違いない。夕飯の用意されたリビングへと赴く。だが気になって、夕飯の味はしなかった。いっそハッキリさせた方がいいかもしれない。それに子供、しかも赤ちゃんを抱いていたなんて事実があったら、それは彼女のためにも良くないことだ。
「そういえば、変な話があるんだよ。君が、その……小さな子供を抱いているのを見たという人がいるんだけれど」
「小さな子供を?」
 ジェシーはしばらく考えるように視線を彷徨わせていた。
「ああ。見かけない人だったから奥さんだったのかと聞かれてね」
 僕は少し言い訳がましく言った。彼女はまだ考えるような仕草を見せていたが、やがてしっかりと僕を見た。
「それ、たぶんハートリーさんのお子さんだわ」
 ジェシーは頷いた。
「ハートリーさん?」
「この近くに農場があるでしょう、そこのお子さんよ。女の子なんですって。たまたま奥さんと出会ったから挨拶をしたの。仕事も募集しているらしくて、いま少し考えているの。今度あなたと一緒に改めて挨拶に伺うって言っておいたわ。たぶん、それを見ていたんじゃないかしら」
 僕は言葉に詰まった。
 だれの子供であれ、子供と一緒にいたのは事実だと認めたようなものだからだ。
「ジェシー」
 できるだけ自分を落ち着かせるように名前を呼んだ。
「君に必要なのは休養なんだ。だれかの手伝いであっても働いたり、ましてや子供の世話なんてもっての他だ……、そんなことをすればむやみに思い出すだけだ」
「別にお世話を任されたわけじゃないわよ。挨拶しただけだもの」
「それでもだよ。ジェシー、わかってくれよ」
 ジェシーは少しだけ目を丸くしたあと、大きく深呼吸をするように息を吐いた。
「ええ、そうね」
「うん。僕は医者として言ってるんだよ」
「わかってるわ」
 ジェシーは本当に理解しているのだろうか。
「ハートリー氏のところには僕が行くよ」
「どうして? 二人で行けばいいじゃない。ハートリーさんはいい人たちよ。ご近所さんとは仲良くしておくべきだわ」
「きみ一人じゃ心配なんだ。何度も言ってるだろう、きみに必要なのは休養なんだよ。僕が一人で行くよ」
「……そう」
 そのハートリーとかいう農場の奥方に、ひとこと言ってやらねば気が済まなかった。子供を亡くした傷心の妻をいたずらに傷つけるようなことはしてほしくなかった。最初こそこの町は良い町だと思ったが、もっと静かなところに行くべきだったか。人がいるということは、子供がいるという可能性を完全に失念していた。ジェシーがその子供と出会ってしまうことも。近くとはいえ町があると便利だし、僕だってそこで仕事を見つけたからこそ近くへやってきたというのに。ジェシーをあまり外へ出すべきではないのか。僕はどうすべきかを考えはじめていた。
 僕はしばらくジェシーの様子を観察していたが、特にこれといって変わった様子はなかった。湖にあるベンチで本を読んでいることが多くなった。湖畔周辺はまだ完全に観光地化されておらず、小さなベンチがいくつか置いてあるだけだった。こういう場所にありがちなボートやそれらしい橋のようなものもない。いまだ自然の中にある。ジェシーはほんのわずかな家事を終えると、そこへ行って本を読むというサイクルになっていた。一、二時間ほど時間を潰してから家に戻り、昼食を食べてから暇があればまたそこへ行って続きを読むというものだった。仕事をしながら彼女を観察するのは少し骨が折れた。日によっては僕も一日仕事にかり出される日があり、そういうときが二、三日続くこともあったからだ。
 そんなことを続けていたせいか、ハートリー氏の農場へ行くのが遅れてしまった。ようやくハートリー氏の農場に行くことができたときは、最初にここに来てから十日ほどが経過していた。ハートリー氏の農場は、豚とニワトリも飼育していた。子供の件さえなければジェシーの療養にはちょうど良かっただろう。僕が農場に向かうと、ちょうどジーンズを履いた女が牛の世話をしているところだった。四、五匹ほど外に出ている牛は、元気に草を食んでいた。
「どうしたの、2号。このところ少し調子が悪いわね?」
 女は牛の背中を撫でながら細かく体調を見ているようだった。いきり立っていた僕は一瞬躊躇ったが、結局は声をかけた。
「こんにちは」
「あら、こんにちは。お客さん?」
「どうも、近くに越してきた……」
「あら! もしかして、ジェシーさんの?」
 女はにこやかに笑った。まだ若く、三十代ほどに見えた。赤ん坊がいてもおかしくない年齢だ。この女がジェシーに赤ん坊を抱かせたのだろうか。
 僕はひとまず彼女と挨拶を交わしたあとに、ふと思い出したように言った。
「そういえばお子さんがいるとか……」
 僕がそう尋ねたとき、ちょうど向こうの方からサクサクと草をふみながら誰かが歩いてきた。
「お客さん? こんにちは!」
 七、八歳くらいの女の子だった。
 大人しそうな白い猫を抱えていて、その背をゆっくりと撫でている。
「ええ。この方ね、この間のジェシーさんの旦那様よ」
 僕は少し面食らってしまった。
 子供といえば子供だが、見るからに赤ん坊ではない。さすがに見間違えるはずのない年齢だ。それに、この年くらいの女の子を他人が勝手に抱くような真似もしないだろう。同僚の話では、小さい赤ん坊だと確かに言っていた。それならやはり彼の勘違いだったのだろうか。二人はなにごとか話していたが、僕はほとんど聞いていなかった。
 ハッとして女の子へともう一度視線を向ける。
「そういえばひとつ聞くけれど……弟か妹はいるかい?」
「ううん。お兄ちゃんがひとりだけよ。向こうで豚の世話をしてるはずよ。呼ぶ?」
「ああ、いや……、大丈夫。気になっただけでね」
 それなら、杞憂だったのか。
 むにゃむにゃとなんとか言って、農場から家路に向かう。ここまで敵対的になる必要はなかったと後で自分を恥じた。
 ――いや、でも待てよ。
 ジェシーは子供を抱いたのは否定しなかった。だが、ジェシーが嘘をついているとも考えがたい。たまたま同じ金髪で、赤ん坊を抱えた女性がいたのだろうか。家に戻る途中、ふと道端を見ると、僕の不安を現したかのように白い鳥の死体が転がっているのが見えた。妙にぞっとした。不吉だ。それも、白い鳥だなんて。意識してしまうと、湖の方からもなんだか生臭いにおいがしてくるような気がして、余計に僕の神経を逆撫でた。見なかったことにして、急いで家に帰った。においがまだ鼻の奥に残っているような気がした。
「ジェシー、ただいま」
 声をかけたが、返事はなかった。
「いないのか?」
 出かけてしまったのか。いや、町は人が多いから行く時は二人で行こうと決めたはずだった。それなら裏口から外へ出ているのか。リビングの窓からふと見ると、湖のほとりでジェシーがしゃがみこんでいるのが見えた。なんだ、湖の方に行っていたのか。僕が安堵しかけたとき、その手に持っているものに気がついた。本ではなさそうだった。なにか青緑色のものを抱え、愛おしいものを見るようなうっとりとした目で、あやすように揺れている。目を凝らす。魚かと思ったが、フォルムがはっきりとしない。見ているうちに、その形がなんなのかに気付いた。
 灰色がかった青緑色の肌の、魚めいた赤ん坊だった。
 人間には見えなかった。
「ジェシー……!?」
 僕は慌てて裏口から飛び出した。湖のほとりで振り返るジェシーの近くまで来ると、その手には何もいなかった。
「どうしたの、デミアン?」
 ジェシーは怪訝そうな表情で僕を見ていた。
「いまっ……、なにか……、抱えていなかったか?」
「いいえ? 本を読んでいただけよ」
「そうか? でも、僕には……」
 僕はジェシーの顔をしっかりと見た。
 彼女は感情の見えない顔で、僕を見返した。その目があまりに挑戦的にすら見えて、僕は少しだけ戸惑った。
「帰るわ」
 彼女は僕の横を通り過ぎて、家に向かっていった。その手に本はなく、少し濡れているような気がした。

 それからもジェシーの様子に変わったところはなかった。
 僕はといえば、それどころではなくなっていた。家の中では常に強い湿気があるらしく、黒いカビのようなものがあちこちに出現するようになっていたのだ。良い家だと思っていたのに、時期の問題なのか、それとも湖が近いからなのか、常にどこかから生臭いにおいがしている気がした。しかし、においのもとをたどってもすぐに消えてしまうのだ。それどころかカビは食糧保管庫にまで現れ、近くにおいてあった果物がみんなダメになっていることさえあった。やれる手立てがあるなら、乾燥剤を置いておくくらいしかできなかった。
 このカビ騒動と平行して、僕はあのとき見たジェシーを思い出すようになっていた。あのとき見た青緑色の赤ん坊はなんだったのだろう。そもそも黒や白ならともかく、あんな色の人間がいるとは到底思えない。でも、あれはまちがいなく赤ん坊だった。僕の幻覚などでは決してなく。
 憂鬱なことはこれに限らなかった。道端で鳥の死体を見ることも珍しくなくなった。どこかしらで白い鳥が死んでいる。それも僕の家の周辺でだけだ。何か変な病でも流行っているのではないかと同僚たちに聞いてみても、町ではそんなことはないと言われてしまった。 
 かといってジェシーにあれから何か変わったことはなかったか聞いても、彼女はにっこりと笑ってこう言うだけだった――「いいえ、何も」と。
「あなたの言う通りにしているだけよ」と彼女は言った。
「だれとも喋らず、何もせず、静かにね」
 ジェシーはそう付け加えた。
 確かにここに来てから、彼女が忙しく動き回る姿を見ていない。僕の望んだとおり、僕の処置通りに家にいて大人しくしている。湖で本を読むだけだ。それなのに、この奇妙な胸騒ぎはなんだ。あれ以来農場にも行っていないらしく、ハートリー夫妻に逆に気にかけられてしまったこともある。妻は病気で大人しくしている必要があると言ったが、ハートリー夫妻は互いに顔を見合わせるだけだった。それどころか、逆に「外へ出た方が」などと言われた。素人に何がわかるというんだ。そのことも僕を苛々とさせた。
 だが僕の苛立ちとは正反対に、不吉なことばかりが続いていた。知らないうちに革靴に傷がついているのは序の口で、家の前に置いていた植物がことごとく枯れてしまうようになった。
 そんなことに気を取られて呆然と歩いているからか、一度は車に轢かれそうになったことまである。同僚が慌ててスーツの首根っこを引っ張ってくれなければ危なかった。
「あ、ありがとう」
「気をつけろよ。なんだか最近変だぞ、きみ!」
「ああ、うん」
「この間だって、外科に置いてあったメスを落として指を切っていたじゃないか……気をつけてくれよ」
「そうだな。このところ少しぼうっとしていた気がする……」
「大丈夫か? 少し休んだ方がいいんじゃないか?」
 ぎくりとした。
 それは僕ではなくジェシーにかけられるべき言葉なのだ。僕ではない。
「いや、本当に大丈夫なんだ」
 同僚は少しだけ眉間に皺を寄せて、僕の肩を叩いた。
「わかった、ちょっと気分転換でもしよう」
 彼は早めに仕事を切り上げたあとに、僕をむりやりに連れ出した。いつ連絡が来てもいいように携帯電話はしっかりと持っておいた。彼に連れて行かれたのは酒場だった。西部開拓時代の雰囲気を残すサルーンのような作りで、外壁にもしっかりとそう書いてある。中に入ると、これまた映画でしか見たことのないような作りだった。カウンターの向こうに並ぶ酒はさすがに現代のものだが、いまにも荒くれ者たちが飛び込んできそうだった。細部までこだわって当時の雰囲気を再現しているらしい。
「ここの酒は美味いんだ」
「呼び出しがあるかもしれないんだから、飲まないぞ」
「真面目だなあ。そんなんだからぼうっとしてしまうんだ。でもここはノンアルコールも出しているからな」
 他のテーブルでは既に酒盛りが始まっていて、僕は少しため息をついた。一杯だけ頼んで、あとはジュースかノンアルコールにすることにした。カウンターでは客が酒を飲みながら、マスターになにやら話をせがんでいるようだった。
「サンダーバードの名前はイギリスで人形劇になっていたり、最近はほとんどUMAの名前として有名ですから……、名前だけ知っているという人もいましたね。サンダーバードは実は部族によって伝説や姿が違うんですが、たいていは雷を自在に操り、人を守ってくれる存在なんですよ。つまり、怪物と戦ったりね。食糧を運んで飢餓から救ってくれるという伝説もありますよ」
 どうも酒場のマスターはこのあたりにいたインディアンの血を引いているらしく、祖父から聞いたという伝承や精霊の話を聞かせていた。そういえば、片隅に古いインディアンの羽冠があった。あれもマスターの祖父のものらしい。開拓時代の雰囲気なのに、店主はインディアンなのかと思うと少しちぐはぐな気がした。
「へえ。単なるオカルトかと思ってたが、伝承にもあるのか」
「はい。水の精霊と戦ったり、水中に対する空という考えもありますよ」
「その水の精霊っていうのは、怪物かなにかなのかい?」
「水の精霊かはさておき、人類を滅亡させようとしていた大蛇と戦って助けてくれたという伝説はありますね。それで、サンダーバードは太陽の化身とされたそうです」
 初めて聞くような話だ。この移民の国にも伝承があると思うと、ずいぶんと古い国のように思えてくるから不思議だ。
「あんたはどうだい、マスター。なにか見たことは?」
「さすがに無いですね。……あ、でも」
「おっ、なにかあるのか?」
「近くに湖があるのを知っているでしょう? いまは住宅地になっていますが」
「おお、あれな」
「その湖の近くで、祖父の、更に祖父が、青緑色の肌をした赤ん坊のような怪物を見たと言っていたそうです。祖父の祖父いわく、鱗があって、半魚人のような姿をしていたそうです。そいつは――そいつは見つけて連れ帰ってしまうと、あたりに不幸をばらまき、様々な害を与えるから、たとえ珍しくても絶対に連れ帰ってはならないと言われていたそうですよ」
「へええ」
 自制していなければ、いますぐにマスターにつかみかかってしまうところだった!
 鱗のある、半魚人のような赤ん坊。聞き捨てならなかった。それはいったい何なんだと言いたかった。けれども僕はどうしてもできなかった。そんなものは幻覚やおとぎ話の類であって、現実ではないからだ。
 思えばそのとき、叫んででも話を続けさせるべきだったのだ。周囲に不幸をばらまいて、様々な害を与える半魚人のような赤ん坊……、そんなものが実在するというのか。いや違う。あれはただの偶然が重なっただけだ。精霊など存在しないし、怪物などもってのほかだ。それにジェシーがそんな奇妙なものを連れて帰っているはずがない。あのジェシーが。心の落ち着くところで何もせず大人しくさせているのが僕は最善だと思っていたのに、どうしてそんなものに触れてしまったのだろう。
 僕は首を振った。
 そんなものは現実に存在しない。あれは幻覚で、僕の周囲に起きていることはただの偶然なのだ……。

 はっと気がついたときには、家の前にまで帰ってきていた。同僚と別れる前までの記憶がおぼろげだった。家に戻ってくると、家の周囲はすっかり様変わりしていた。ここに来たときは素晴らしいと思っていた家は、黒ずみ、植物は枯れ、鳥だけでなくネズミや猫の死体さえもがあちこちに落ちていた。あそこで死んでいる白い猫は、農場の猫だろうか。地面は常に湿ったようで土はほとんど泥になっていた。
 玄関の鍵を開け、ゆっくりと扉を開ける。
 家の中は外よりもむっとした湿気に満ちていた。ウェルカムと書かれた玄関マットに足を乗せると、じんわりと腐ったような水分が出てきた。家のあちこちは湿気どころか濡れている。ぽたりと天井から水滴が落ちてきている。家ごと水をかぶったようだった。カビと湿気の混じったにおいが鼻をつく。
「……ジェシー」
 名前を呼ぶ。返事はない。奥へと進む。灯りはついておらず、どこも暗かった。いま電気をつけたら感電してしまいそうだった。仕方なく、棚の上に置いた懐中電灯を手探りで探しだした。棚の上はぬるりとした、魚臭いにおいがした。
 どうしてだ。どうして家で大人しくしてくれなかったんだ。そうすればきっと忘れられたはずなのに。ベニーのことを。それとも――。
 いや違う。僕は何も間違ってなどいない。ジェシーだって無事なはずだ。
 懐中電灯をつけて先へと進む。どこからか歌が聞こえてきた。ジェシーが子守歌を歌っているのだ。僕は声の方へと進んだ。二階からだ。ギシギシと音を立て、濡れてすっかり色の変わってしまった階段を上がっていく。ジェシーの部屋の扉は開いていた。思えば、ここへ来てから彼女の部屋に一度たりとて入っていないことを思い出した。
 もしも。
 もしもだ。
 彼女が既にあの赤ん坊を連れ帰り、どこかに隠していたとするのなら――。
 僕は彼女の名を呼びながら、微かに開いた扉の隙間に手を差し込んだ。
「ジェシー、入るよ」
 返事はなかった。その代わりのように、歌が聞こえている。
 彼女は生臭いにおいにまみれたまま、濡れたベッドの上で座り込んでいた。その手には何かが抱かれている。青緑色の、何かを。彼女ごしに見えたそれは、青緑色の肌をしていた。その肌がキラキラと、まるで打ち上げられた魚のようにきらめいている気がした。気のせいだと自分に言い聞かせる。首のところにはなにか線のようなものが見える。そんなものは幻だ。
「おかえりなさい」
 ジェシーが僕を見た。
 彼女はいつも通りだった。僕を見てうっすらと口元に笑いを浮かべた。
 その瞳は一度として瞬きをしなかった。
 腕に抱えられた青緑色の、鱗とエラのある赤ん坊と同じで。


サポートありがとうございます。感想・スキなど小さなサポートが大きな励みとなります。いただいたサポートは不器用なりに生きていく為にありがたく使わせていただきます。