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すべての存在・いのちは等しい - 闘いの奥にあるもの

この1週間はホルモンバランスの影響もあって、パソコンを見ないでゆっくりしたいんだ〜と身体が言っていた。

書きたいことは溢れてくるのだけど、身体の声を無視して良かった!ということは今まで無かったので(笑)、その流れに乗ってみた。

本を読んで、動画の音だけを聴いて、なんてやっていたら、ぐつぐつ?ぶくぶく?ぼわぼわ?と、ここまでの数ヶ月だったり、またそれ以前の体験が、混ざり合い、熟成されていくような時間になった。

通り抜けました!なんてことはなく、今もプロセスの中にいるのだけど、言葉にできそうなタイミングが来たのでnoteに書いてみる。


人からの評価がやっぱり怖い


noteに「生」を書き始めたことで色んなことが起こって、それは心の痛みだったり歓びだったり、双方が呼び覚まされような日々。

まったく同じというのはあり得ないけれど、そんな中でも、例えばADHDやASD、繊細な人など、似たような経験をしてきた人との共感という交流は、深い歓びを感じさせてくれた。

また、似たような経験をしていない人でも、不必要なアドバイス・介入をせず、プロセスを尊重し、ただただ見守ることができる人の経験の深みのようなものを感じた時に、深い歓びを感じた。

一方で、私の中に浮かび上がってきた心の痛みは、人からの評価がやっぱり怖いんだということ。あぁ、こんなに私は怖がっているんだねっていう、それを知ること自体も痛みが走った。

そんな生々しい現在地を恥ずかしいとさえ思えて、言葉にすることも憚られたのだけど、ほぼ毎日訪れる夫婦の対話時間「言いっぱなし、聴きっはなし」で、口にしてみた。

私は、人からの評価が怖いし、嫌われることが怖いんだって。


嫌われる勇気


ほろりとその気持ちを吐露してみて、やっぱり、そのままを口に出せるっていうのはホッとするな〜と感じた。「そう感じる自分がいるんだな」って、少し余白ができるしね。

そんな対話の時間を終えて、旦那さんがふと「そういえば『嫌われる勇気』っていう本があったな」って、手渡してくれた。

(なんとなく真逆のタイプのような旦那さんなのだけど、でも「生きる」ことに真摯で、似たようなことに興味を持っていて、つくづく面白い人に出会ったなと思う。)

有名な本だから聞いたことはあったけれど、「嫌われる勇気???そんな勇気持てるかねぇ」なんてちょっと斜めに見ながらも、

やっぱり私の人生でも歓びである「表現」にどうしてもついてくる「怖さ」と付き合っていくのに、視点を広げてくれそうな気がして読み始めた。


「縦の関係」を生きている現れ


読み始めると面白くて止まらなくて、ぜんぜん自己啓発本みたいなものじゃなく、スピリチュアリティに溢れる本だった。

(私にとっての自己啓発は、不足感から加算していき、無いものを獲得しようとするようなもの。私にとってのスピリチュアリティは、そのままを受容しつつ視点が変わるようなもの。)

「嫌われる」とか「評価を怖がる」というのは、

縦の関係=闘い・優劣の世界を生きているからであり、他者をどこか「敵」だと思っていること、

他者をとても気にしているようで、自分にしか関心がないという現れであること。行為のレベル(〜をしているから、〜を持っているから等)で自他をジャッジメントしていること。

そんなことが主に書かれていたと思う。
いやぁ、そうですよね、としか言えない。笑


知っているだけでいい


もちろん、痛いな〜!って思ったんだけど、それでもね、じゃあそれ(縦の関係)をやめなきゃ!ってことでもない。すぐにやめられるものでもないし。

何かこう、自分の好きなこと、大切なことを表現する時に「怖いな」って思わない人なんて、そうそういないんじゃないかなと思うし、

例えば作品を世に出して、それに対する酷い評価に直面した時に「そうですかそうですか」って涼しい顔をしていられる人も少ないんじゃないかと思うし。

だから大切なのは「知っている」ってことなのかなって、今は思うのです。
(なんでも平気ですってなったら、人間卒業してる気もするし。笑)

闇雲に「怖い」っていうことを感じ続けても、無意識に闘いの世界を生き続けていたら、ずっと「怖い」は魔物のように感じてしまうかもしれないけれど、

闘いの世界に生きているんだな、って知りながら、少しずつ少しずつ闘いの世界から離れていくことはできるんじゃないかな〜って。完全にじゃなくてもね。

だから、知ることで起きる視点の転換、そして、その転換したところから、今自分がしていることを「観察する」って、愛だなぁと。今はそんな風に思います。


「横の関係」とは


そんなこんなで、「縦の関係=闘い・優劣の世界」と対比して書かれていたのは、横の世界。

それは、特別であること(特別でないと愛されない)から降りて、「普通である勇気」を持つことで垣間見る世界であり

行為のレベル(〜をしているから、〜を持っているから)でのジャッジメントを自他にすることなく、存在のレベルでの価値(存在しているだけで、この世界に貢献している)を知っているということ。

自分という存在に執着しているところから、他者へ関心を向けていること、人に〜されることを求めるのではなく、他者に何ができるだろう?と思い巡らせ、それを(目立つようなことでなくても)行動していること。

他者や世界を「敵」ではなく「仲間」だと認識している世界であり、その「仲間」を行為レベルではなく存在レベルで信頼していることであり、

だからこそ、私はここにいてもいいんだ、と感じられているような世界。
地球や宇宙にまで「共同体」感覚がのびていっているような感覚。

まぁ、こんな言葉たちを見ているだけで、私は涙が出ました。


じゃあ、どう生きていくの?


「嫌われる勇気」は、世界的にはフロイトやユングと並ぶ心理学界の三大巨匠とされるアルフレッド・アドラーの思想を元に書かれている本で、

アドラーは、原因論やトラウマ(〜があったから今、〜である)を否定し、目的論(〜という目的があるから、今、その過去を使っている)を提唱した人らしく

だからこそ「今ここで、変われる」(私の理解では、視点が変わる・選択できる・創造できる)と説いた人らしいけれど

それでも、この「縦の関係(優劣・闘いの世界、〜という行為によって幸せになる、など)」という思想は、脈々と人々に受け継がれてきた思想・思い込みであって、

「横の関係」を生きることが容易くないこと、それでも、その世界を自分から生き始める勇気を持つことが大切であると残しているという話だった。



本の中には、「人を褒める」ことすら、背景には縦の関係の思想とコントロールが潜んでいると書かれていたし

きっと、人が当たり前に無意識にやっている世界が「縦の関係」の世界なのだろうと思うし、もしも寸分違わず完全に「横の世界」を知る時があるとしたら、魂の中に完全に還った時だろうなと思う。


それくらいの気持ちで、それでも私が今できることは、瞬間瞬間に流れ込んでくる感覚に「自覚的」でいることだ。何が背景にあってそれらを選択しているのか「観察」していること。

その「眺めている」優しい眼差しを、育み続けていくこと。そうやって生きながら、闘いから降り続けていく。そして、自分の周りに、小さくてもいいから「横の関係」を創造していく。

「自分」なんてものは幻想だ、「自分は本当はいない」という視点も持ちながらも、それでも、流れくる生々しい感覚を面白がったり、表現したり、そうやってここで楽しんで生きたいのだ。

闘いの奥にある、いのちの本来の姿、すべての存在・いのちは等しいという歓びを生きていきたいから。



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