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笑える話は難しい

一ヶ月限定とはいえ、毎日更新をしていく内に、少し見えてきたことがある。
僕、funny系の面白い文章、書けない。

実は僕、面白い掛け合いのようなエッセイというものに憧れがあったりする。
だが、現実は厳しい。
日常の話を、自分なりに膨らませて書くことくらいはできるが、どうしても自分の型が決まるというか、いわゆる「普通の」文章が限度である。
文章力を向上させる余地はたくさんあるし、もっと上手く書こうとすることは可能だろうが、面白いエッセイというにはほど遠い。
良くも悪くも、文章がクソ真面目過ぎるのだ。
人と話していて「その単語チョイスはセンスあるな」とか、他の人の文章を読んでいて「この内容をノリだけで面白く書けるのすごいな」とか感じることはあるのだが、自分はその域に達することがない。

よく「人を笑わせるのは人を泣かせるより何倍も難しい」などと言うが、エッセイに関しては本当にそう思う。
いや、泣かせるのも楽ではないですよ?
もちろん、どんなものでも尖らせるのは楽ではないのですが、確かに面白さには正道がないように感じる。
泣ける話は、いくつかパターンがある。それこそ「お涙頂戴もの」とか「感動もの」と言われる部類のヤツで、一見バカにした表現に聞こえるかもしれないけど、やっぱりその定型で泣ける人は一定数いるのだ。
ちなみに僕は、忠犬ハチ公とフランダースの犬で泣ける。なので、どうしても人を泣かせる話を書きたい時は、犬を感動的に死なせればいいんじゃないか、と思っているが、あながち間違っていない気がする。
ただ、笑いは定型がない。
あまり誉められた笑いではない、と言われつつ、他人をいじる、他人を落とす路線は鉄板にはなり得るのだが、書き方次第では品性がなくなり、読み手が不快になる可能性がある。
後は、自分を使って笑わせることだが、これも案外難しい。
自虐も間違えれば卑屈か、誘い受けになってしまう。

結局、言葉の選び方なのだ。
ただその選び方にどう、という理屈はあまりなく、しいて言うなら「愛かな」というあいまいな言い方になってしまう。

笑わせたいと願う愛が、人というものに対する愛が、笑いを生むような気がする。

なんて言ってしまうと、思考の放棄のし過ぎなのかもしれないが。