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自分を大切にするということー前編ー

ふと気が付いた時には、いつの間にか市民権を獲得していた「自己肯定感」や「ご自愛」といった言葉たち。

昨今の、まるで付け焼き刃のように何でもかんでも「自己肯定感を高めよう!」といった風潮には多少の気持ち悪さを感じつつも、多くの人が自分自身の認識や生き方に対して選択肢があることに気付くきっかけとなった点は、非常に大きな意義があるように思います。

一方で、まだまだ「自分を優先させる」という考え方は、ともすれば眉をひそめられやすいのも確かです。

「人様に迷惑を掛けてはいけない」
「自己犠牲は美徳である」

自分よりも周囲を優先し、集団の中では謙虚に、かつ空気を読んで立ち回ることが良しとされ、出る杭はたちまち打たれてしまう。

時代は変容しつつあるとはいえ、良くも悪くも、根深い“お国柄”が染みついているこの国で、個と集団のバランスを取ることの難しさに息が詰まりそうになった経験は、少なからず誰にでもあるのではないでしょうか。

実際に「常に頑張って評価され続けなければ自分に価値など無いように感じる」、「他人への頼り方や甘え方がわからない」、「自分を大切にすることや愛することに抵抗を感じる」といった悩みを、私にそっと打ち明けてくださる方は決して少なくありません。

今回は、「自分を大切にするということ」をテーマに、いま私が思っていることを書き連ねていきたいなと思います。

生きるために必要な手段だった

自分自身を大切にすることが難しいと感じるのはどうしてでしょうか。あるいは、自分には大切にする(される)だけの価値など無いと感じるのはどうしてでしょうか。

100人いれば、100通りのエピソードがあるかと思います。

お前など価値が無いと刷り込まれてきたせいかもしれません。
子どもの自分を受け容れてもらえず、大人のような振る舞いをすることが求められてきたからかもしれません。
過去の失敗を自分の責任だと背負い込んできたからかもしれません。

いずれにしても、そう思わざるを得ない理由がきっとあったはずです。

そして、何らかの形で「自分は優先されるべきではない」と考えることが強化されてしまった、つまり、自分が望むかどうかに関わらず、生きるために必要な考え方だったのではないかと私は考えます。

“空気を読む”の高度化

スクールカーストなどという言葉がまだ無い頃に子ども時代を過ごした私ですが、小学生のときに流行語大賞にノミネートされた「自己チュー」という単語はとてもセンセーショナルなもので、たちまちクラス内で「お前自己チューだぞ!」などと多用されるようになったのを覚えています。

流行語に飛びつくのは子どもあるあるだなと自分も子どものくせに思いつつ、やっぱり「自己チュー」と呼ばれないようにしなくちゃとも思わずにはいられませんでした。

その数年後には「KY(空気読めない)」が、同様に流行語大賞にノミネートされ、“空気を読む”ということは、まるで生きる上での必須スキルみたいだな、と再認識させられた感覚になったのを記憶しています。

周囲の空気を読んで、周囲が認識している自分のキャラクター通りに振る舞い、お互いの居場所を確かめ合い、承認し合う。そこに「本当の自分」は必ずしも必要なく、周囲が望む「キャラクター」だけが呼吸をし、会話をしている。

そんな空気感は私自身が10代の頃からありましたが、もしかしたら今の10代は、もっとシビアなものになっているのかもしれないなとよく想像します。

SNSの普及によって、日常的に理想と現実のギャップや他者との比較と直面し、他者から承認されることが自己を承認できる材料の全てにもなりかねないそんな現代で、自分の「居場所」を獲得していくというのは非常にハイスキルなことではないでしょうか。

また、その「居場所」が、彼ら彼女らにとっては「世界のすべて」であることを考えると、自分がどう考え、どう感じ、どうしたいかよりも、周囲に合わせて自分が変容していくことの方が安全とさえ言えるのかもしれません。

斎藤環著『「自傷的自己愛」の精神分析』の中に、非常に興味深い記述があったのでシェアさせていただきます。

発達障害の近年の急増ぶりは、とりわけ日本で突出しています。かつて「広汎性発達障害」と呼ばれた障害の有病率は、日本では約二パーセントとされていますが、これは欧米の調査結果のほぼ二倍以上です。──中略──発達障害は先天的な脳の機能障害ですから、日本で突出して多いというのは奇妙なことです。

「自傷的自己愛」の精神分析

もし、「空気を読む」ということについて、その求められるレベルが高度化しているという仮説を立てると、なんだか納得してしまうのは私だけでしょうか。

自分さえ犠牲になればすべて上手く回る?

話題に上がりやすいテーマではありますが、個人的には「自分が犠牲になっている」という点で、すでに上手くなど回っていないと考える派の人間です。

かくいう私も、昔からそのような考えを持っていたわけではなく、むしろズタボロになっても犠牲になることを喜んで引き受けてしまうタイプの人間でした。

これでみんなが気持ちよく笑顔でいられるのであれば、こんなにも自分の存在意義を感じられることはないと、本気でそう思っていました。

恥ずかしいことに、心のどこかでは、私なら上手くやってみせるからねという驕りのようなもの、これも無かったとは言いきれません。

それって、本当に失礼なことだったなと今になって大反省します。

自分は本音のひとつも言わず、自分が上手く回るように段取りをつけてあげなければ、決して「うまく回るはずがない」と確信していたようなものですから。

人は、犠牲になり続けることはできないのですよね。無理をし続けていたり、自分を大切にできないことで人からも雑に扱われたり、そういった中でさらに自分の価値に対して否定的になってしまうという負のループから、疲弊して心のバランスを崩してしまうことにもなりかねません。

自分さえ犠牲になればすべて上手く回る、あなたはどう考えますか。

後編へ続く、そのまえに

最近のゆにの推しのアイシナくんをご紹介させてください…!

もちもちとしたフォルム、たゆんとしたお腹、ふんわりしたしっぽの可愛さはさることながら、自分軸を持ち、他者の目よりも自分の価値感とていねいに向き合って、大切なものを大事にするそのギャップにきゅんとしてしまいます。

本家シナモンは空を飛べるのに、アイシナくんはそれをやめたのです。なぜなら「地に足をつけて生きたくて」。

興味が湧いてきたあなたのために、オフィシャルサイトのリンクを貼っておきますね⇩

それでは、また近いうちにお送りする後半もよろしくお願いいたします。

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