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見返りがなくても続けたいほどのこと

今年になってから映画館で見た映画は、『ボヘミアン・ラプソディー』と『ライ麦畑の反逆児』2本。どちらも素晴らしかったけれど、特に今の私に響いたのは『ライ麦畑の反逆児』だった。

サリンジャーの作品は高校生くらいの頃、村上春樹の翻訳で出た『キャッチャーインザライ』を読んだくらい。すごくサリンジャーのファンというわけではないけれど、それでもものすごく面白かった。
どうやってベストセラーが生まれたか、その才能は誰によって見つけられどのように磨かれ発掘されたのか、戦争によって一人の人間の人生がどう影響を受けたのか、天才だからこその普通でないことの苦悩など、この映画は味わうポイントがたくさんある。人によって、ときによって、いろんな楽しみ方ができる映画。

一番心に残った言葉は、「見返りがなくても書き続けられる人だけが作家になるべき」という言葉。これはサリンジャーが作家としてデビューする前に、そのときの師匠に言われた言葉。これって物書きだけでなく、ミュージシャンとか画家とか、何か作品を作る人すべてにあてはまるんじゃないかと思う。才能がある人って、結局そのことしかできないような、どんなことがあってもそれをやめられないような人だと思う。

最近はSNSのおかげで、セルフプロデュースが上手で発信力がある人が世に出て目立っている。でもそういうことを器用にできる人だけでなくて、作品作りをたんたんと続けるような才能のある人をきちんと育てなきゃいけないと思う。セルフプロデュースも発信もできるようなある意味器用な人だけが表に出てくる世の中だと、結局表に出てくるものは似てきてしまうんじゃないかとなんとなく思う。
クリエイティブな才能はその人にしかないものだけど、その才能の見せ方や世の中にどうやって出すかを考えてそこからお金を生み出す仕組みを考えることは、他の凡人にもできる。それに本当にひとつのことを続けるしかないような才能の持ち主は、時間はかかるかもしれないけれどいずれそういう世に出すことが得意な人に出会う気がする。

あと面白かったのは、キャッチャーインザライのような超傑作も、原稿の段階では大手出版社何社からか断られ、そのまま出したいといったのは1社だったこと。これを断った編集者はあとでどんな思いだったのだろう・・・。
『ボヘミアン・ラプソディー』でも、フレディが今までにない長さの新曲を出そうとしたときにレコード会社からめちゃくちゃ反対されていたシーンがあった。でもその曲も発売後は傑作となった。
時代を代表するような傑作は、出る前に必ず反対されるものなのだと思う。傑作は新しすぎるから、「そこそこ売れそう」なものに比べると、ハイリスクに見えるんだろう。失敗が怖いから、反対する気持ちもすごくわかる。というかむしろ、つい「そこそこ」なものを作ってしまいがち。でも「そこそこ」を狙っていたら絶対に傑作は生まれない。凡庸なものを作るのではなく突き抜けること、出す前に反対されても落ち込まないこと、これを心に刻みたい。

そして驚いたのは、サリンジャーが戦争のショックから抜け切れず原稿を書くことができなくなったとき、再び書けるようになるまで寄り添ったのが編集者ではない、意外な人物だったこと。これはネタバレになってしまうかもしれないので書かないけれど、ある意味アメリカ的なのかもしれない。ちょうど今の日本でも流行っていて私自身もとても興味のあることだったので、サリンジャーを救ったのがこれだったのが意外だった。ネタバレしないように書いたらなぞなぞみたいになってしまった・・・。

太平洋戦争にアメリカが参戦し、軍隊としてヨーロッパの戦地へ行くシーンの描写はショッキングだった。そのときのサリンジャーの唯一の心の支えだったのが頭の中にあったホールデン少年(キャッチャーインザライの主人公)で、その話を書き続けるようにといったサリンジャーの最初の師匠との関係は最後まで切なさがある。

『ライ麦畑~』を日比谷シャンテで観終わったあと、すぐ近くの日比谷コテージという書店に寄った。ここのラインナップはけっこう好き。気持ちが高まって外国文学を急に読みたくなり、これだけ買って帰った。資生堂のフリーペーパー『花椿』はフリーペーパーであることが信じられないくらい贅沢な作り。

この感想noteは、このおふたりに書いてほしいといっていただけたおかげで書けました。感想とかまとめるのって後回しにして結局書かないことが多いから、きっかけを作ってもらえてよかったです。ありがとうございます。


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