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「女」という標識

ドイツに来て、何よりも気楽なのは、男の子ともお互いに一人の人間と認識して交流できることです。

女だから、といって区別されることもなければ、女だから、といって容赦されることもありません。
逆に、男だからといって無意味に対抗心を燃やす必要もありません。

日本のことを男女不平等な社会だとは思いません。でも、性別の役割が未だ強く残っていて、性別を理由に選択肢が変わったり、人生設計が異なることが多い社会です。

その中で、性別は生きやすくなるための武器にもなり、逆に生きづらさを強める重りにもなります。

私の友人の1人は、お母さんになることが夢です。
自分のお母さんのように、家を綺麗に保ち、子供を育て、暖かい家庭を築く。
それが彼女にとっての幸せの形で、女だから社会に出て働くのではなく、家に残ることを容赦され、その特権を享受できる選択肢です。

反対に私は、母として家庭を守るということを考えたことはありません。私の母は、社会に出てお金をたくさん稼ぐことで私たちを育ててくれました。私にとって主婦としての母像はとても曖昧だ、ということも理由のひとつだと思いますが、自分が女であることの特権を享受する選択肢は私には存在していません。

日本にはどちらかと言えば、私の友人と同じ将来像を描く女の子が多いと思います。
男性も、働いて家族を養うという責任感を持っている人が多いでしょう。

性別という標識によって行動を変えて、それぞれの特権によって生きやすさを探っていく。

私にとっての日本社会はそんなイメージです。
私自身も女としての特権に甘んじようと、色々と盛り場や交流の場に行ったりしましたが、結局いい気分になることは一度もなかったです。

それよりも、男の子と友人になれる、女としての標識を気にする必要のない今の環境が私にとっては居心地が良く、一個の人間として認められることがとても嬉しいのです。

今日、友人の誕生日パーティーに呼ばれて、少し顔を出しました。友人は日本語を勉強しているということで、彼の日本人の友人も多くいて、私は少し落ち着いていそうな日本人男性に声をかけてしばらく世間話をしました。
パーティーのためにめかし込んでいた私に、何を思ったのか知りませんが、彼は少しずつボディタッチを図ろうとしてきたのです。

その時、私はようやく自分が自分の望んでいた環境にいたことに気付きました。

その日本人は明らかに私を一人の人間としてではなく、女という標識をもつ人間としてみていました。彼自身も、男という標識を持つ人間として私に認識させようとしていました。それはきっと全くの無意識のうちに下された判断で、彼を責めるのはお門違いなのかなと思います。

ただ、私が日本の外で日本的なものに触れるたび、自分がいかに日本社会に迎合できなくなりつつある存在なのかを認識して、日本に戻って生活を再開することの厳しさに悲しくなるのです。


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