【映画レビュー】『テルマ』が面白すぎて2回観た

一年ほど前の映画ですが、やっと観ることができました。これは、最高のレズビアン成長録といっても過言でないのではないでしょうか。
しかしこの映画、深読みできるところがありすぎて、観終わってからも、後から後から考察が止まらない!結果、2日続けて同じ映画を観てしまいました。やばい。

〈あらすじ〉
厳格なキリスト教家庭に育ったテルマは、親元を離れて都会の大学に通うことになる。同じ学校の女の子アンニャへの恋心と、不可解な発作により、テルマの身の回りに少しずつ変化が現れ、やがてテルマの秘められた力と過去が明らかになっていく…

ノルウェーのひんやりした美しい風景の中に展開されていく、ぞっとするような家族の心理ドラマ。
公開時ホラー映画として紹介されていましたが、残酷なシーンやショックを与えるような描写がほとんどないので、ホラーが苦手でも、これは大丈夫な人が多いんじゃないかと思います。

まず思ったのは、「ダーク・アナ雪」でした。親に抑え込まれていた能力が発現する物語としては『キャリー』と比較する人も多いようですが、個人的にはむしろアナ雪のレリゴー。
しかも、エルサが「力を人々の役に立つことに使えるようになる」という懐柔路線に走ったのに対し、テルマはもっと破壊的に支配を打ち破ります!

保守的な家庭で育った同性愛者が、いかに自己矛盾を克服し、植えつけられた呪いを解くかという提起も読み取れます。
そこに超常現象を絡め、性愛だけでなくあらゆるの面での人間の解放と自立も象徴する、なんとテーマ性に富んだ美しきサイコファンタジー。
テルマを恐ろしいと思うか、応援するかでこの映画の見方は大きく変わってきそう。レビューの評価もかなり割れている印象です。みなさんもぜひ実際に観て、自分はこの物語をどう読むか考えてみてください。

さて私の見解はというと、ここからは【ネタバレ】になりますので、気になる方は鑑賞後にお読みください。
まあ大どんでん返しとかはないので、先を読みたい欲が勝る方はどうぞ。






「パパータオル取ってー!」って叫ぼうよ

テルマの弟に関する回想は、テルマの力と過去を示す重要なエピソード。
最初にテルマが弟に対して力を使うとき、テルマは母親の関心を奪われた嫉妬から、弟を消そうとしたように見えます。
しかし、二度目に力を使ってとうとう弟を死に追いやってしまうシーンでは、いくつかの違和感があります。

母親が、まだ自立できない赤ん坊を、一瞬とはいえ水を張ったバスタブに置いていこうとすることに、マジで!?思ってしまうのです。映画表現としても、この時点でテルマの力と関係なく悲劇が予想できてしまう、余計なミスリードに思えます。
父親だって家にいるんだから、「寝てていいのに」じゃないよ、「パパータオル取ってー!」って叫ぼうよ。幼いテルマの方が先に取ってきてくれそうだけど。

母親が戻ってくると、赤ん坊は忽然と消えていて、眠っていたテルマが揺り起こされ、弟はどこかと問いただされる。何かを感じ取ったテルマが向かっていったのは、氷の張った湖。氷の下に弟は沈んでいる。奇しくもバスタブで懸念されたように、水沈死する弟…。

このシーンを観たとき、実は赤ん坊の死を願ったのは、母親の方だったのではないか…という疑念が私の中に浮かんできたのです。もしかしたら、彼女は育児ノイローゼだったのではないか?
能動的に殺したかったわけではないだろうけれど、「このままバスタブに沈んでくれたら楽になれる」…という追い詰められた心理が、彼女の中にあったのでは?
思えば最初に弟に力を使うシーンでも、テルマは弟に優しく触れているのに、母はそれを拒絶して、何かちょっと様子がおかしい。
「赤ん坊の泣き声を何でもいいから止めたい」というのも、どちらかというと、きょうだい児の発想よりも育児中の親の発想らしさがあります。

実はテルマの力は、自分の願い以上に、親の思いに応えて発動していたのではないでしょうか。
「親の希望に応えなければ」という脅迫観念と絡んでテルマの力が発動することは、恋するアンニャを消してしまったことや、自分自身をプールに閉じ込めてしまったことからも見て取れます。
そして母は、自分が赤ん坊の死を願ってしまったことを知っているからこそ、自殺未遂という行為に及ぶ。

(実は母にも力があった説も考えましたが、同じ力を持っていた祖母は父方っぽいので、流石に無理筋かな…と…でもその読み方もできるっちゃできます)

ところで、テルマを支配する父親は、弟に関するシーンでは影が薄いんですよね。
同じ家の中にいるのに、泣く赤ん坊のそばに行くのは母とテルマで、ソファの下から救出する時に呼ばれてやっと登場する。
母が赤ん坊をバスタブに置いていこうとする時も、父は遠くにいて子どもに関わる様子がない。

父親がもう大人のテルマを風呂場で洗うシーンには、かなりざわっとしますが、お前赤ん坊のお風呂は手伝わなかったくせに!と思うとさらに怖気立ちますね(笑)
私は父親のこの行動は、テルマに直接的に性的なことこそしないけれど、性的なことにまで父の支配力が及ぶとほのめかし植えつける行為なのではないかと考えます。

日常的な脅しのワンシーン

母親とテルマの間には、母の思念をテルマが受信してしまうような独特のつながりがあるように見えますが、対して父親とは、そういうつながりがあるようには見えません。

代わりに父親との間にあるのが恐怖による支配です。
父が幼いテルマの手を、火傷寸前までロウソクの火の上にかざしたという話を聞いて、アンニャも「嘘やん」という反応をしていますが、こうした脅迫は日常的にあったのかもしれません。
(この話は最後の父のシーンと対応していて小気味よいですね!)

冒頭の、父が鹿に向けた銃口をテルマの方に向け直すシーンにも、わずかな違和感があります。テルマが銃口を向けられていることに気づかないにしては、距離が近すぎるのです。
鹿に夢中になっていたからという理由づけで納得させようとするくらいなら、もう少し立ち位置を変えた方が自然なシーンになったはずで、単に撮影上のミスということになってしまう。

これはもしかして、「父がテルマを殺そうとして殺せなかったシーン」ではなく、「日常的な脅しのワンシーン」ではなかったかと思うのです。
テルマは気づいていて、「いつものあれだ」と理解し、時が過ぎるのを怯えながら静かに待っている。

父は、テルマを怖れていたから殺そうとしたのではなく、テルマを恐怖で支配できると侮っていたからこそ、「殺さなかった」のではないでしょうか。

テルマの能力が自分を凌駕するほど大きいことを父は知っている。けれど、小さい頃から脅しを繰り返し恐怖を植えつければ、完全に彼女を支配でき、自分を脅かすことはないと考えている。
しかし、父の領域から逸脱する同性愛が、テルマの体に癲癇のような発作を引き起こし、父を超える能力を発揮するようテルマを導く。

もうあなたと私は関係ない

一方で、テルマの力は、母の不自由な脚を治します。しかしそれは、別に母を救ったわけではないかもしれない、と私は思います。
弟の死と、その代償のように負った母の障害は、父の知らない、母と娘だけで通じ合う特有のつながりを象徴するものだったかもしれません。そして、「傷ついた自分をテルマはいたわり続けなければならない」という、母から娘への呪いを裏付けるものでもあったかもしれない。
脚を治すのは、テルマから母への「もうあなたと私は関係ない」という、つながりを絶つ証だったのでは…と思うのです。

魔女のように見える女

最後のシーン、自信に満ちた微笑みを浮かべるテルマはミステリアスで、まるで「魔女」のように見えます。しかし、保守的な「家の娘」であることをやめたテルマは、単に「人間」になったのかもしれません。

自分の能力を発揮して単なる人間として生きる女性は、この世界では皆、魔女のように見えるのかもしれません。

(文・宇井彩野)

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