【ネタバレ】映画『テルマ』についての追記

映画『テルマ』、前回かなり熱く考察を語ったにもかかわらず、その後また「ん?待てよ?」と気づいたところが出てきてしまったので、追記を書くことにしました。
今回は最初からネタバレです。

テルマは力を使ったのか?

幼い頃のテルマが弟に力を使ったエピソード、前回の記事で私は、母親の行動の奇妙さから、「テルマは自分の願望ではなく親の願望に応えて力を使ったのではないか?」と推測していました。

しかしよく考えると、そもそもあの2つの回想シーン、どちらもテルマの仕業だと断定できる要素がほぼないんですよね。
むしろなぜ両親は、あの状況で弟の身に起こったことをテルマの力のせいだと思ったのか?
ここで視聴者は勝手に「そのほかにもテルマが力を使ったことがあったからでは?」と補強したくなってしまうけれど、それは映画の中で全く説明されていないことであり、ということは、他の推測もできてしまう余地があるということです。

だって、たとえ「テルマに不思議な力がある」「不可解な状況で弟が死んだ」という条件が揃っていても、親だったら娘が息子を殺したなんてこと、おそらく一番信じたくないでしょう。
ましてや弟が死んだ時、テルマは別室で眠っていた。あの状況で両親がテルマの力のせいと信じることに躊躇がないのは、どういうわけなのか。

本当にテルマに力はあるのか?

弟の事件に疑念を抱き始めると、そもそもテルマに力があるというのも、我々はどこでどう判断したんだろう、と思い至ります。

不思議な出来事を時系列順に並べてみると、

1.幼いテルマがお絵描きをしている背後で、弟の泣き声が突然消え、姿も消えたかと思った数秒後、弟はソファの下に挟まった状態で現れる。

2.弟がバスタブで姿を消し(その時テルマは眠っている)、外の氷の下で発見される。

3.大学の図書館でテルマが突然痙攣し倒れる。その時図書館の窓に、烏が突撃しては落ちていく。

4.眠っているテルマは、大きなヘビが自分の体にまとわりつく幻想を見る

5.夜中にアンニャがテルマのアパートの前に現れる。アンニャの前に行くと、テルマは痙攣して倒れ、アンニャに介抱される。
そのまま泊まったアンニャに、翌朝なぜ来たのか尋ねると「メールくれたでしょ」と言うが、メールを送った形跡はない。アンニャがなぜテルマの住所がわかったのかも謎。

6.バレエを観に行き、隣に座るアンニャに脚を愛撫されるが、テルマは痙攣が起きそうになり会場を飛び出す。同時に天井の大きな照明器具が揺れる。

7.パーティで煙草を大麻と騙されて吸ったテルマが、不思議な幻覚を見る(人の体が奇妙に発光し、アンニャに愛撫されると同時に、ヘビがテルマの首に巻きつき、口の中に入っていく)。

8.精神科の治療で医師がさまざまな質問をしていくと、アンニャを思い出す質問が出た時、照明が明滅し始める。
その時、アンニャの部屋のステレオも勝手に鳴り出す。
テルマはアンニャが消えるイメージを見る。その直後からアンニャと連絡が取れなくなる。

9.学校のプールで泳いでいる時に痙攣が起こり、テルマは水中深くに落ちていく。気がついて上がろうとするが、水面に天井のようなものが現れ閉じ込められる。溺れる寸前で天井は消え、テルマは倒れ込むようにプールサイドに上がる。

10.自分の力への恐怖から実家に戻り、父から薬と悪魔払いのような治療を施される。父がテルマのアンニャへの気持ちを否定する言葉を告げると、家中のあちこちでロウソクの火が消える。

11.一人でボートに乗っている父の図上に烏が集まってくる。父は一瞬岸に、白い服を着た人影を見る。その直後、父は全身を炎に包まれる。
父の死を感じ取ったテルマは湖に向かう(父が見た人影と同じ白い服を着ている)。そのまま湖に潜って泳ぎ出し、学校のプールに辿り着く。プールサイドにはアンニャが居て、水から上がったテルマはアンニャとキスを交わす。
…というイメージの後に、湖から息も絶え絶えに岸に上がるテルマの映像に切り替わる。
テルマは何か黒い、烏の子どものようなものを吐き出す。

12.テルマは、父はどこか問う母の頬と脚に触れたあと、家を出ていく。テルマを追いかけようとした母は、いつのまにか車椅子から立ち上がっている。

実は一番テルマの力の発現として納得しやすい要素が多いのは、父の死と母の脚の治癒なんですよね(それも確証はないけれど)。
それ以前のことは、実はテルマの仕業と判断できる要素がかなり少ないのです。

それでも大学生になってからの「現在」のことは、テルマの身に起こっていたり、テルマが何らかのイメージを受け取っていたりはするけれど、「過去」の弟の事件については、関連性すら確実ではない。

現実世界の比喩として

ストーリー上で何が起こっていたのかを理解しようとすると、いくつもの推測が浮かんでくるし、そのどれが正解かは誰も答えが出せないものになってしまうでしょう。

たとえば、

・両親は弟の死に対する自分たちの責任から目をそらすために、テルマを魔女と思い込むことにした。その無意識下の洗脳を受けて育ったテルマに、いつしか本当に力が目覚める。

・実は父にも力があり、弟を殺したのは父だった。父はテルマの力が自分を超えないように、精神的に抑圧したり、自分の力で攻撃したりと、さまざまな形でテルマを脅かしていたが、最後にはテルマの力が勝り復讐される。

・母は弟を虐待していて、ついに殺してしまった。そして夫が自分の母親(テルマの祖母)の力を憎み、魔女狩り思想を持っていることを利用し、すべてをテルマの力のせいにした。魔女狩り思想にとらわれて当初からテルマを疑っていた父は、母の言い分通りに思い込み、テルマを抑圧し続けた。

などなど…

いろいろ想像は膨らむのですが、しかしこの作品においてより大事なのは、それらが現実世界の親子関係における比喩になっているところなのかもしれません。

娘が大きな力(可能性、能力)を発揮することを妨げ、その力を隠し、理不尽な恐怖を与える父親。娘が自分の力の存在に気づくと、今度は力を使うと恐ろしいことになるというイメージを植え付けようとする。

一方で母親は、赤ん坊の世話を一人で背負っていて、父親が関わらないことも良しとしてしまっている。娘の講義の時間をネットで調べ毎日のように連絡するほど過干渉なのに、父が娘を矯正しようとする場面では、妙に冷たい視線を娘に向けている。

そしてテルマが告げられた病名「心因性 非癲癇発作」を検索した時に出てくる、「魔女」のイメージ。
祖母の、「夫殺し」の罰を受け息子に薬漬けにされ、施設に軟禁された「魔女」のイメージ。

この両親に共通するのは、一つは家父長制的価値観を内面化していること。
父親は女である祖母やテルマが力を持つことを忌み嫌っている。そして、赤ん坊の育児には積極的でない。
母親は夫のそんな態度を肯定し、娘にはベッタリと粘着しながら、力を発揮しようとした娘には、裏切られたとでも言うかのように急に冷たい視線を送る。

そしてもう一つは、2人とも"なぜか"娘をとても恐れていることです。
しかしその恐れの確証となる裏付けは、作中では実は、描かれていない。

何より「テルマが弟を憎んでいた」と確信できる描写が何もないことは、両親の恐怖が根拠のないものだと示すヒントとして、制作者が故意に組み込んだものではないかと考え得ます。
両親の恐怖が大きくなるほど、テルマの力は彼らにとって本当に恐ろしいものとして発現する。
人は自分の恐怖心によって、他者を実体よりも恐ろしい者へと育ててしまうのかもしれません。

それは、中世の魔女狩りで起こったことにも、現代の世界のあちこちで起こっているセクシュアリティや人種や民族の違いによる差別にも似ています。
魔女狩りは現代にも起こりうるということを、この作品は伝えようとしているのではないでしょうか。

(文・宇井彩野)

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