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縄文時代に思いを馳せる【都道府県シリーズ第2周:山形県 小国町編no.1-7】

山形県南西部の小国町(おぐにまち)は大部分は山間地域ですが、市街地一帯は平野部になっています。
この平野部がどのように形成されたのか?
を考察するうちに、古い地すべり地形の山頂にある神社と、平野部の「舟渡」と言う集落との繋がりが見えてきました。

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平野部の地質

もう1度、「kunijiban」で公開されているデータを見てみましょう。

ボーリング柱状図(一部を切り抜き)の一例:kunijibanより

上の図は「ボーリング柱状図」の一部を切り出したものです。
小国町の平野部の地質を代表するものとして、平野の中央部付近の柱状図を見ると、概ね上図のような傾向にあります。
柱状図は地層の積み重なりを表現したもので、簡単に説明すると、岩盤(砂質凝灰岩)の上に河川堆積物(玉石混り砂礫)、さらにその上に湖沼・湿地堆積物(凝灰質粘土、有機質シルト)が重なっていることを表しています。

玉石混り砂礫は「河原の礫と砂」の地層で、第四紀更新世後期(約77万~1万年前)段丘堆積物です。
(※玉石については下の用語解説を参照)

<<用語解説:玉石>>
玉石とは、河原にあるような丸い礫の中でも、特に丸くて硬いもののことです。厳密には地質学の専門用語ではなく、地質調査業界や土木業界で使われる慣例的な用語です。
なぜ「玉石」として区別されるかと言うと、ズバリ「掘りにくいから」です。掘るために時間と労力がかかり道具も摩耗するため、普通の礫層と区別されています。
あくまで人間の経済活動に関わる場合の区別であり、自然現象を対象とする地質学では、一般的な礫層・礫と同じ扱いです。

段丘礫層の上の地層は、厳密には時代は分かりません。
更新世の終盤か、もしくは完新世(約1万年前~現在)です。
時代はさておき、少なくとも川の流れでつくられた段丘の凹地に水が溜まり、湖沼や湿地で形成された地層です。

平野の中央部付近のボーリングは、概ね似たような傾向でした。
つまり平野部全域ではないにせよ、昔は湖沼や湿地があったと考えられます。

小国町周辺の地質図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

地質図を見ると、平野部の北西の地域の方が、完新世の堆積物(画像中央上部の薄い水色)がメインのようです。
(※地質図は表土等の地表部の薄い層は除外したもので、薄緑色の段丘堆積物の分布域でも、厳密には表層部に完新世の地層が堆積している場合もあります。)

つまり同じ平野部の中でも、南部は更新世以後の堆積作用が不活発で、約1万年前以後は、北部を中心に土砂が溜まったと言うことを示しています。

土砂が溜まると言うことは、「水の流れが緩やか」もしくは「水が流れていない」という環境であったことを示しています。
やはり舟渡周辺の地域は、約1万年前から現在にかけて、湖沼や湿地だった可能性があります。

縄文時代に遡る??

約1万年前と言えば縄文時代です。
ネットで少し検索しただけでも、小国町には多数の遺跡があり、縄文時代から人々が暮らしていました。

しかし歴史を遡ってみると、まだ土木技術が発達していなかった時代は、河川沿いの土地は人が住みにくい土地でした。
つまり舟渡地域一帯がかつては湖沼地域だったとすれば、そこに人は住んでいなかったと考えられます。
その場合、現在舟渡に住む方々のご先祖様は、どこに住んでいたのか?

小国町沖庭神社-舟渡周辺の地形図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

地すべりが侵食される前は、上図赤点線の範囲一帯には、緩やかな斜面が広がっていたと考えられます。
地すべり活動でほぐされた土地は耕しやすく湿地や池も多い。
現在でもいくつか池は残っていますが、昔はもっとあったと思います。
これらの水辺には様々な野生動物が集ったでしょう。
山の上なので洪水の心配もありません。
狩猟採集や初期の農業を営む縄文時代の人たちにとって、決して住みにくい土地ではなかったハズ。

そこで私の大胆な仮説です。

戦国時代よりもっと昔。
弥生時代~平安時代かさらに昔の縄文時代か?
小国町の平野部は湖沼や湿地が多い地域で、特に北西部の「舟渡」周辺は湖であり、人が住めなかった。
しかし西の山は地すべり地帯で、地すべりによって形成された「なだらかで水が豊富な広大な土地」が広がっており、そこに人々が住んでいた。
そして現在の沖庭神社の場所は、もともと五穀豊穣の神様を祀った場所で、人々の信仰の対象だった。
やがて地すべり活動が活発化し、土地が荒れ果て人々が住みにくくなったころ、舟渡周辺の水が引き、平坦な土地が広がるようになったため、人々は沖庭から舟渡に移り住んだ。
この新しい村は、かつては舟で渡っていた場所だったため「舟渡」と名付けられた。
時は戦国時代末期。殿様が伊達から上杉に代わって光兎山からの遷座の話が持ち上がった際に、かねてから五穀豊穣の神を祀っていた場所を神社にすることとなった。

どうでしょうか?
あくまで私の妄想ですが、地形・地質地域の伝承を結び付けると、こんな推論もできます。
なかなか面白いと思いませんか?

長くなってしまいましたが、お読みいただきありがとうございました。

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