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皮膚感覚と思考

理屈で物事を判断しようとするとき、何だかどうにも奇妙な抵抗を感じることがあります。社会的な慣例や、常識とされるパターンなどに当てはめてみれば "正解" と思えるようなことでも、どうにも腑に落ちない。

その "皮膚感覚" に従わなかった場合が不正解かというと、そうでもない。その時はそうでもないように見えているだけかもしれない。

結果として「ああ、ちょっと上手いこといかなかった」とか、買い物であれば「なんだか使わなくなってしまった」というような結果になることがある。

絶対的に間違った判断ではなかったし、結果としても間違いではなかったものの、どうも釈然としない。
禍根を残すような大げさなものではないが、どうにもざらつきのようなものが心に残る。

では皮膚感覚に従ったパターンはどうかというと、今度は頭のほうが釈然としないことがある。
ザラザラとしたような心残りは無いものの、手品のタネがわからないような感覚とでもいうのだろうか。

「ああ!」「おお!」という素直な感動はあるものの、理屈で理解できない悔しさが残るような、そんな感じ。

シンクロ

これは感覚と理屈が素直にリンクしていないから起こることなのかと想像してみる。

完全にリンクできるようなことなのだろうか。
「そういうものだ」として自分を納得させている人もいるかもしれない。

何か絶対的な経験をされている方ならば、皮膚感覚に絶対の信頼ができているのかもしれないが、一般人にはそういった経験値が不足しているのかもしれない。

日々の修練や鍛錬で培われたもの。
圧倒的な実力者との遭遇。

そういった経験値や体験が不足しているから、なかなか身体感覚に絶対の信頼がおけないのかとも思う。

私を含め、現代人は頭で考えたことでしか行動しないため、皮膚感覚とのバランスが著しく狂っているのかもしれない。

心身一如。
精神と肉体のバランスを指す言葉。
思考のことは入っていない。

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