『MMT×マクロ経済学ノート Part 1』にひたすらツッコむ

全体を通して事実誤認というか、「"主流派"の経済学は所詮こうであろう」という思い込みで書かれている部分が多いです。以下一つひとつツッコミを入れていきます。


>経済学者は、「喜びを最大化して苦しみを最小化する合理的な個人」による「意思決定」を前提にして分析を始める

経済学が前提とするのは選好関係(preference relation)の合理性(=完備性+推移性)とそれに基づく意思決定であって、効用の最大化はその鏡写しに過ぎません。

>経済学者というのは、主に思考実験を容易にするために、「経済合理性」といった単一の要因に限定する。これは要するに「不確実性(uncertainty)の排除」だ。

ここでいう「不確実性」とはナイト流の意味ではなく「リスク」を指すと思いますが、現代の"主流派"のマクロ経済学は当たり前のようにリスクをモデルに組み込むので事実誤認と思います。市場均衡理論・ゲーム理論などにおいても同様です。

>自己利益を追求する活動は自然に公共の利益に合致する。もし分配に異常があれば、それは個人と市場の活動を阻害する第三者(主に政府)による「不合理な」介入があるからだ。こうして新古典派の理論は、市場活動を規制する政府介入を拒絶する。

新古典派の理論でも市場の失敗の存在は認めるので、その場合は政府の介入を容認します。現代のミクロ・マクロ経済学でも摩擦のある市場と政府介入は当たり前に扱います(でないと、そもそも経済政策の議論が出来ません)。メカニズムデザインなどでは市場への介入を積極的に支持します。

>マーケットの需給が「均衡」する世界では、個人がそれぞれ効用を最大化しているのだから「公正」(fair)であるとされる。

効率性(efficiency)と公正性(fairness)は別の概念です。摩擦のない市場ではワルラス均衡配分は(パレートの意味で)効率的ですが、公正であるとされるとは限りません。この事は一般的なミクロ経済学の教科書に書かれている事と思います。

>「フリーランチは存在しない(=タダ飯はない)」は、経済学者が好んで使う言葉だが、これは資源を希少なものと考え、常にトレードオフの関係を想定する新古典派経済学から来ている。この希少な資源は、市場で需要と供給が均衡する形で最大限活用されている、つまり「市場が完全雇用を達成している」(どの資源も「遊休状態」にならない)と新古典派では考えられている。

"No free lunch"という言葉はファイナンスの無裁定条件を表す言葉で、「同じ割引現在価値を持つ金融商品は同じ価格になる」というのがその含意です。トレードオフは関係なく、効率的市場がその基礎にあります。また、「どの資源も「遊休状態」にならない」という意味ではなく、誤用です。

>現実社会においては、社会秩序を侵すほどの過度な自由は抑制され、個々人の生存には集団での協力が要請される。

経済学における自由も抑制された概念です。例えば、自由競争だからといって、競争相手を殺す自由は個々人にはありません。また、集団での協力も個々人の合理性から説明できる場合が多くあります。

>「異端」のアプローチでは、「需要と供給の均衡」といった市場の物語を所与としていない。現実世界で市場価格の決定権を持っているのは誰か。主には市場支配「力」のある企業である。

現代のマクロ経済学では、当たり前のように企業が各々の生産する財の価格決定権を持つ経済を扱います(むしろ、それを仮定しない方が稀と言って良いくらいです)。「市場の物語」と相反するものではなく、「異端」のアプローチ特有でもありません。

>賃金(wage)も労働市場の需給均衡によって決まるのではなく、「労働者と資本側の代表との間での交渉プロセスの結果を反映して設定される」

現代のマクロ経済学も同様に、賃金決定のプロセスに企業と労働者の間の交渉(ナッシュ交渉)を設定する場合があります。そこでは交渉力を表すパラメータが当たり前のように出てきます。「異端」のアプローチ特有ではありません。

>所得の変化は企業の売り上げや意思決定にも影響を与える。こうしたことは、価格や賃金が需給バランスの市場原理によって決定されるという考え方からは見えてこない

マクロ経済学は価格・賃金・所得などのマクロ経済変数の相互関係を分析する学問なので、当然この辺りは分析されます。むしろ、企業の利潤最大化を仮定しているから、所得の変化が利潤に、そして均衡における意思決定に影響するというダイナミズムがより明示的に、かつ精緻に表現できると言ってよいです。

>経済学が「社会科学」たりうるためには、人間が社会的動物であることを理解し、賃金などの価格決定の背後にある社会的力関係を認識し、社会秩序の調整弁である政府の役割を重視することが必要だ。

理論がどのような状態であれば「人間が社会的動物であることを理解」していると言えるのか不明です(教科書の最初にそう書いてあれば満足するのでしょうか?)。残りの2つは上で述べたように現代経済学の分析対象として当たり前に扱われています。つまり、経済学は、ゲーテちゃん氏の言う「経済学が「社会科学」たりうる」ための条件を既にほぼ満たしています。

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