読める、とは。

昨日は外交のような仕事で1日外に出ていて、少し疲れた。

それで、昨日の話で、とある紙に書かれたものを見る機会があったのだが、そのときにもう一生使うこともないだろうと思っていた知識(学生時代の専門に近いところの知識)を使うことになった。実際に使用する場面があるとは思わなかった。そうか、こういうときに使う知識かと、知った。

でもそれはやはりかなり限られた特殊な条件であって、それはまるで、変な形のペンをみて、これは何と聞かれてようやくThis is a pen.と言えることが嬉しい、みたいな、妙な寂しさを伴う嬉しさだった。
研究者は、ずっとこの寂しさと付き合うのかもしれないなと思った。

そして、自分のコミュニケーション上の病もまた発症してしまった。
なにかというと、それは「正確に伝えたい病」であり、そのために考えすぎてコミュニケーションが止まってしまう病である。

発症の引き金となったのは、一つの質問で、それは、
「〇〇が読めるんですか?」
というものだ。
私は途端に答えに窮してしまった。

「読める」ってなんだろうか。どういうことを言うんだろう。質問者の思う「読める」って、なんだろう。私の思う「読める」ってなんだろう。そしてそれは一致するんだろうか。
そんな疑問がぐるぐると頭の中を回り始め、脳のメモリを圧迫し、回答することが置き去りになる。

紙に書いてあったのは、異国の、古典の、詩だった。

この場合、「読める」というのは、文字が識別できる、ということなのか、単語として認識できるということなのか、発音できるということなのか、文節というか区切りやまとまりが分かるということなのか、全体の意味が理解できるということなのか、書かれているものが何なのか(たとえば異国の古典の詩であるということが)わかるということなのか、それが何のどの部分であるとわかることなのか、作者が表現した対象が何かがわかるということなのか、詩のこころが捉えられるということなのか、感情が理解できるということなのか、作品がどんな文脈で生まれ、どのような価値を持っていて、それが今ここにおいてどんな意味を持っているかがわかることなのか、、、e.t.c.
とにかく「読める」の意味がありすぎる。

きっと質問している方は、自分の知らないことを知る私に、純粋に驚いただけのような気もするのだが、私と相手の「読める」がはっきりしないこのような状態で、「読めるんですか」に「読めます」とは、どうしても答えられないのだ。

しかしあとになって思うと、その時点でもう、もしかすると、「読める」と言ってしまってよかったのかもしれない。「読める」ということの意味を考えてしまう程度には、向き合ってきたものであることは確かだったから。

少なくとも、それが何なのかがある程度わかる、調べがつけられそうだと思える、という意味においては、「読める」と言えなくもないな、と、今日になって思った。
まぁただ明日は思い直してまた違うことを考えているかもしれない。

だからやっぱり、いつまでもこうと答えられない。
まったくもって、面倒な病気だ。

※ちなみに、近しい人にこの話をしたら、「普通の人よりはおそらく読めます」とか「調べながらならだいたい読めます」と答えておけば間違いないと言われた。
うーん、そういうものか。まぁ、相手が欲しい答えとしては、そういうものなんだろうな。
私が「正確に伝えたい」というのは、私の問題で、私のエゴなのだから。

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