見出し画像

美江子さんが島を離れてから思い出していたこと


美江子さんとのこと

2011年5月に鹿児島市内の老健施設から、宝島で介護サービスが提供できるようになり、「母ちゃんを島に連れて帰りたい。」とご家族の意向もあり、出身地小宝島の隣にある宝島に戻ってこられる。当時、ご家族は「鹿児島の施設では、地理的になかなか会いに行くことが難しい。宝島であれば、船便に合わせて顔を見ることができる。」と話されていた。

画像5

当時の宝島からすれば、片麻痺の車椅子の高齢者が島で暮らすことは想像できていなかったと思うし、受け入れる側であったスタッフも不安だった。当初は、バリアフリーの施設とは程遠い住環境に、素人同然のスタッフがほとんどであり、美江子さんも大変な思いをされたと思う。公共施設を間借りし、それまで過ごされていた介護施設とは程遠い環境だった。大きな段差を車椅子で移動し、トイレは既存のトイレは使えず、ポータブルトイレを使って頂いた。入浴施設もなく、公衆浴場を使うことになる。地域の自治会長自ら、島内放送で介助者同伴での入浴への理解を呼びかけてくれた。

美江子さんの来島で、24時間365日の介護サービスの提供が始まった。しばらくは間借りしていた公共施設でサービスを提供していたが、住民からの声もあり、隣接する公共施設の2階に引っ越すことになった。古い建物で、もちろんエレベーターはない。福祉用具のリフトで昇降して頂いた。2012年に新たな介護拠点施設が建設された。

新しい建物はバリアフリーで、自分のペースで行動できることも増えた。車椅子を健側を使い、自走で居室と居間を行き来されていた。

娘さんから、昔は「やきもち(伝統菓子)」を焼いていたと情報を頂き、事業所でもよく焼くようになった。美江子さんの「やきもち」は地域の定番のお菓子になった。

画像1

運動会や文化祭、地域の催しではいつも、美江子さんとスタッフが一緒に「やきもち」を焼き、地域の方に喜んで頂いた。指でタネを舐めて、甘みの加減を見たり、火加減を調整したり、美江子さんにしか焼けない「やきもち」を次の世代にも遺したいと、地域の婦人会の希望者を募り、「やきもち作り講座」も行われた。学校帰りの子供たちが、「やきもちないですか?」と事業所に立ち寄ることも増えた。

 何かを教える時には、優しく教えるだけでなく、時には厳しい口調も聞かれた。「ちゃんと教えたいけど、自分の身体が思い通りにいかないから」という主旨の発言があった。それ以外にも感情を抑えれらないことがあった。

昔からの神事を大事にされる方で、旧暦の暦を見て、スタッフに教えてくれたり、長男の住む小宝島に連絡をしていた。

画像3

遠方の家族にも電話をかけられ、健康を気遣われていた。特に、贈り物が届いたら、すぐにお礼の電話をされていた。

味の濃いもの、塩辛いもの、黒砂糖、魚が好物ではあった。島で獲れた魚を提供したり、小宝島のご家族からの差し入れの料理が届くと大変喜ばれた。刺身はもちろんのこと、骨の多い魚や伊勢エビは、歯茎が痛いと言われている時でも、素手で掴み、「猫も食べるところがないくらい」きれいに食べられていた。少しでも長く元気に過ごしていただくために、塩分とたんぱく質を制限した食事療法を取り入れ、本人も努力されていた。

画像4

本人の歩きたいという意向があり、痛みがない時には、立ち上がりや歩行練習を行われていた。

画像2

居室には、亡くなられたご主人の写真があり、お盆や法事の際には、「お父さんに」と、スタッフにそうめんを茹でてもらい、お供えしていた。旅に出るときも、写真に声をかけられていた。

船酔いするため、船での移動は苦手。30分ほどで着く、小宝島への帰省でも酔い止め薬を飲まれていた。

賑やかな場所がお好きで、宴会や地域の催事には積極的に参加されていた。

胃瘻については、使用されている話を聞いた際に、「ああいうのはせんでええ。」と話されている。

最期を迎える場所については、「最期は病院かもな」と口にしていた。家族や周りの人に、迷惑をかけたくない、痛みへの不安を話されていた。

2016年には、スタッフが同行する沖縄旅行に参加される。

2017年11月に、鹿児島でご家族と米寿のお祝いをされる。

画像6


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?