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島での介護、一歩ずつ

「母ちゃんを島に連れて帰りたい」

「あいた、あいたた」
美江子さんを宝島に迎えた時の僕らは、実践では身体介助をしたことのない、素人同然だった。それに輪をかけて、バリアフリーには程遠い住環境…美江子さんは、介助が上手くいかず、「あいたた、あいたた」と言われていたことを思い出す。

美江子さんは小宝島で暮らしていた。 しかし脳梗塞を患い、鹿児島市内の介護施設へ。 介護が必要になれば、 介護施設のない島では暮らせない。暗黙の了解だった。

それでも、「島に帰りたい」。いやそれよりも、家族が「島に帰って来て欲しい」一緒に事業所を立ち上げてきたスタッフでもある家族の願いがきっかけだった。
まだハード面が十分でない2011年の5月、鹿児島の施設に入所されていたM子さんは帰ってきた。

当時は、公共施設の6畳二間を間借りしてのサロン活動がメインで、M子さんの受け入れをきっかけに、24時間体制でのサービス提供が始まった。とは言え、初めから、みんなが手放しで迎えられたわけでない。当時の宝島に車椅子の方が生活するというのは、イメージしにくかっただろうと思う。車椅子の方が使いやすいトイレや、入浴設備はなかった。地域の方からも不安の声は出ていた。正直、僕だって心配だった。初めてのことは、誰だって不安だし、怖い。

それでも、本人の覚悟が地域を動かした。使われていなかった物置を片付けられ、簡易トイレを設置した。お風呂に入る時は、週に3回営業する宝島の温泉センターを介助者同行で使わせてもらう了承を、当時の自治会長自ら地域にアナウンスしてくれた。

それでも、美江子さんには不便な想いをさせていたと思う。美江子さんが島に帰ってきてからしばらくして、間借りしていた6畳二間から、別の公共施設へのお引っ越し。もちろんエレベーターなどない。階段を二人がかりで介助して上り下りした。段差ばかりの生活環境は、人の手が必要だった。気兼ねもあっただろうと思う。

ただ、今思えば、その時間が美江子さんとの関係を創るには大事だったようにも思う。モノがなければ、何かで補おうとする。「いつも、ありがとうね。」美江子さんは口癖のように言っていた。関わる環境としての僕たちの工夫や努力、そして本人の頑張り。

誤解を恐れずに書けば、僕らにとって、美江子さんは単に利用者というだけでなく、一緒に事業所を作ってきた仲間とすら感じる。生活環境が整った今、「美江子さんの暮らし」に寄り添い、向き合いって行きたいと思う。

次回は、そんな美江子さんの今の様子を書きたいと思う

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