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岩義さんと「少年親父」と漁に出て、叱られもしたけど、背中を押してもらっていた話

それまで、介護サービスがなかった宝島に移住して、1年が過ぎた。サロンサービスから立ち上げて、24時間365日のサービス提供を開始。大変なことも多かったけど、プライベートでも結婚して、充実していた。

僕らがいることで、引かれる線

事業所の場所を公共施設の1階から、隣の建物の2階に引っ越して、地域の方、特に高齢者の来所が少なくなった。立地もその要因だったと思うけど、介護保険制度への移行段階での難しさを感じていた。それまでは無料だったサービスだったが、該当者とそうでない人で、線が引かれる。事業所の存在が、困っている人が行く、困ったら行く場所という認識が広がっていた気がする。この頃からの仕事は、思わずして一度引かれてしまった線、立ってしまった壁を壊す作業だったと思う。

僕らが来たことで、関係性の中にあった役割を切ってしまうことは避けたかった。島の人口構造の移り変わりの時期、地元住民の高齢化や移住者の増加に重なったこともあるが、「お互いに支え合う関係性」が薄れて来ていたところに、僕らがいた。高齢者に対しても、「困ったら行く場所としてだけでなく、困った人と支え合う場所」そんな働きかけを心がけて来た。今思えば、もっとうまくできたのかもしれないと思うが、当時の僕たちはベストを探し続けていた。

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岩義さんと少年親父

岩義さんと、僕の尊敬する少年親父の一人、前功さんの付き合いは古い。いつか、前功さんが語った、岩義さんとの思い出話があった。岩義さんが若い頃に、一緒に漁にであたり、建設業の仕事をしていたこと言ってたことを話してくれた。岩義さんにもそんな話を聞いたことを伝えると、いきいきと昨日のことのように話してくれた。きっと、美化されていたのだろう。話が大きかった。でも、そのことをきっかけに、一緒に漁に出ることになった。

魚群探知機がなかった頃、漁場を見つけるのは、「島の形が目印だった。」そんな話をしっかりと覚えていて、声を張って話す岩義さんだ。でも前功さんたちにイタズラされたことを聞いたときは、ばつが悪そうに忘れたふり⁈をしてたのも、岩義さんっぽい。二人の関係性が羨ましかった。こういうこれまでの関係の中で、岩義さんのままであり続けることが出来る。

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いつか書くことになるが、岩義さんの培って来た関係性から広がったことは多い。当時、岩義さんの相棒は僕だというのが地域の認識だった。僕の前の相棒は、当時青年団長だった隆志さんだ。この頃から、隆志さんが受け継いで来た米つくりに関わって来た。

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叱られるのも僕の役割

ちなみに、岩義さんと漁に出たことで、後日、大目玉をくらう。スタッフさんが遠くに住む親戚に連絡をして、心配してのお電話があった。その時、器の小さい僕にとって、心配とクレームは近いものになっていた。確かに足取りのよくない岩義さんにとっては、リスクもあったかもしれない。でも、天候の判断や船の状態を、経験豊富な前功さんと見極めての決行だった。前功さんにも嫌な思いをさせてしまったのではと、謝りに行くと「そんなこと、気にするな。」といつも通り、僕の好きな少年親父の顔をされていた。

何もない島だから

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