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宝島での最後の時間を噛みしめながら過ごした話

2019年の年の瀬。島を離れる決断からの時間、移住してきてからの9年を振り返ってきた。色々なことを感じ考えて、暮らしてきた。時を忘れさせる島は、きっちり忘れられないでいる。強くない僕は、無い物ねだりをし続けてしまう。医療が充実していれば。島民の意識が変われば。行政が変われば。僕たちは何をどうしたら。

特に、最後の3ヶ月。昨年末の青年団の忘年会では、数年ぶりにタバコに火をつけた。吸うことに意味はなく、その時一緒にいた、竹内さんとの時間に意味があった。賑やかな場を眺めながら、思い返すことがたくさんあった。帰宅後、これからのことへの不安も重なり、感情が溢れた。こんな僕のそばにいてくれる家族に改めて、改めて感謝した。

足掛け9年を過ごし、プライベートは本当に充実していた。こんなに恵まれた子育ての環境はない。仕事柄、人の中にいることが多い僕の子供たちは、本当に島の人たちによくしてもらった。幼いながらに、親以外にも、人から愛される経験、大事にされる経験は、彼らの根っこに確実に栄養を与え続けると思う。

仕事においてはどうか。島に住みはじめた当初は、必死だった。島の人の想いを知り、それを実現しようと。たくさん嬉しかった経験を共有し、少しづつ、宝島の「たから」として、馴染んできている。ただ、「最期まで」というところに、行き着かなかった。もちろん、一概にそれがゴールなわけではない。

何度も聞いてきた言葉

「島に帰りたい。」病院でも、その言葉を何度も聞いてきた。亡くなった方のご家族も、親戚もどこかで心に残っていると思う。正直、僕にも後ろめたさがないわけではない。環境や人のせいにしたところで、結局、自分はどうだったのか。何をしたのかって。何ができたのかって。想いだけでは、変えられない。

人は変えられない。変わるのは自分。ただ、自分だけが変わっても、僕には変えられないことが多すぎた。ポジションをとった後にしかわからないことだった。

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「ありがとうの会」

撤退する3月。感謝を伝える場「ありがとうの会」を設けた。これまで毎年続けてきた子供たちへ向けてのイベントも兼ねてだ。夜の部では、今ままで特にお世話になった方たちが集まってくれた。その中には、シマさんの息子さん夫婦の姿もあった。

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息子さんは滅多にお酒の場に出てこられない。その姿を見て、Iターンで僕らのことを気にかけてくれていた本名さんが、「ヨネの言葉より、直矢さん夫婦がこの場に来たことで、ヨネの実績を感じた。」そんな話をしてくれた。そのあと、直矢さんとブルーハーツを熱唱。嬉しかった。僕は直矢さんをはじめ、その世代の少年親父の皆さんに育ててもらえたと感謝している。

そして、「自分の親にも言われたことのないことを言われながら、育ててくれた。」パートさん。今だから言えることも多かった。「お前はよくやったよ。」お世話になった人たちが声をかけてくれる。最初から、もっと早くから、自分の弱さをさらけ出していたら…。

中学の歴史の先生が言ってた。「歴史に、「もしも」は、ないんやけどな。」ふと思い出していた。

別れの季節。いつかは…とイメージしていた送別会が続く。やっぱり、僕は変わらず泣き虫だ。

「ありがとうの会」を行なった日。岩義さんの命日だった。

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