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ふたつのワイエス展

1月末から参加しているメンバーシップ「#オトナの美術研究会」。ここでの月イチお題記事執筆企画で、今月のお題は「#思い出の展覧会」ということだった。何か書きたいと思いながらも、自分の”思い出の展覧会”を絞り込めないまま月末が迫ってしまった。

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美術館めぐりと思い出の展覧会

わたしの美術展めぐりは高校生のころまで遡ることができるのだけれど、自主的に頻繁に足を運びはじめたのは名古屋でひとり暮らしをしていた大学生のとき。もうかれこれ30年近くになる。

最も頻繁だったときには年間50ほどの展覧会を観ていたと思う。所帯を持ち東京近郊に住む現在は、ずっと頻度が落ちてせいぜい月に一度ぐらいだろうか。

首都圏にはたくさんの巡回展がまわってくるので、気になる美術展はものすごく多い。しかしながら人気の展覧会はいつも混みあっている。予約制の多くなった最近は常にキャンセル待ちという展覧会すらある。

仕事や家庭の都合もあって見逃してしまうものも結構あるけれども、裏を返せば、訪れた展覧会はかえって厳選して観ることができたものなのかもしれない。それはそれで充実しているような気がする。

5回のうち4回ぐらいは購入してしまう展覧会の図録。天井まである書棚2さおに収まりきらなくなってきた。図録のおかげで、いままでに観た数々の展覧会をふりかえって思い起こすことができる。あらたに訪れた展覧会を過去に観たものと比べるのは楽しいし、かならずなんらかの気づきがある。

12月に書いたヴァロットン展のときみたいに、過去の関連する展覧会を芋づる式に思い出していると、長く展覧会めぐりをしているからこそ見えてくるもの、感じられるものがあるように思う。

逆に過去の経験が邪魔をして鑑賞するときのインパクトが薄れることはないのか。そういった弊害はあるかもしれない。だから、なるべくいつも感性のレセプタを全開にする気持ちで展示を観るよう心がけているつもりだ。

買いためた図録が並んだ書棚を眺めつつ、思い出した展覧会がある。

まだあまり多くの美術展を観ていなかった学生時代。貧乏学生ゆえに持ち合わせがなくて展覧会当日には図録が買えず、後で出なおして図録を買ったのだった。

その展覧会は1995年に愛知県美術館で観た「アンドリュー・ワイエス展」。これこそわたしが書いておくべき”思い出の展覧会”かもしれない。

高校時代に知った米国の現役画家

アンドリュー・ワイエス(1917–2009)は20世紀の米国を代表するリアリズムの画家。米国北東部ペンシルヴェニア州とメイン州の片田舎で、こつこつとまわりの人物や風景を描き続けた(以下のリンク先は公式サイト)。

ワイエスの作品では、樹木の木肌が精緻に描かれたテンペラ画を知っていた。高校の美術準備室にあったスーパーリアリズムの書籍に載っていたのだ。

スーパーリアリズムはひとことで言えば20世紀に現れた徹底した写実表現の絵画(19世紀以前にも驚異的な写実描写はあるけど、それらは含めない)。狭義では写真を再現したようなフォトリアリズムを指すようだけど、その書籍にはそうしたフォトリアリズムのほかにエドワード・ホッパーなどの具象絵画も掲載されていた。

写真と見まごうフォトリアリズム絵画は、その名のとおりほとんど写真にしか見えない。たしかにそのテクニックは注目に値する。けれど徹しすぎると没個性化してしまう。そもそもが抽象主義や表現主義に対するアンチテーゼとして先鋭化していたのだから、没個性化するのは当然の帰結なのだけど。

写真を参考にしてそれをキャンバス上に再現する試みは、ある意味単純な作業だ。そうした作業だけヽヽならある程度描きすすめられれば達成感が得られる。わたしが高校で最初に描いた油絵はそんな作品だった。

野積みになった廃棄自動車は現代の産業社会の終着点を象徴している。そんな社会的なメッセージを込めるためにも、徹底した写実表現が必要だと考えていた。

このスウェーデンの港の絵もそんな作品だった。これは現役を退いた帆船がならぶ野外博物館。棄てられた乗り物の次は、対照的に退役後も別の形で役立っている乗り物たちの姿だった。

当初の役目を終えた我々の道具。その姿から人類の功罪を問えないだろうか。

このように、高校生のわたしはジャーナリストよろしく社会的なメッセージを写実絵画で表現してやるのだと意気込んでいた。

しかしそれは自己満足にすぎなかった。

絵は虚構だ。現場で撮られた写真には文字どおり真実を写した説得力がある。絵にするかぎり報道写真のリアルさには迫れない。没個性化した写実絵画が虚しく思えた。写真を真似たところでそれ以上にはなれないじゃないか。絵画はむしろ写真に表現できないものを表現すべきではないのか。

スーパーリアリズムの書籍にあったワイエス作品には詩情があった。

テンペラという技法のせいかもしれないけれど、徹頭徹尾写実的に描かれているのに写真のようには見えない。その樹木には命が宿っていた。樹木のある地域の空気感と、おそらくはその地域に生活する人びとの視点と息づかいがあった。

もしもその絵の場所で写真家が撮影したらこれ以上の存在感が出せるものだろうか。きっとこの絵は写真に表現できないものを描いているに違いない。

そうしてワイエスはわたしにとって最も気になる現代の画家になった。

当時はカメラもフィルムカメラ。もちろんインターネットなどなく、その書籍以外にワイエス作品を観るには図書館ぐらいしか方法がなかった。しかし教科書に載っているようなオールドマスターとは違って、米国の現役画家の画集など地方の図書館では見つけることができなかった。

そしてわたしは自分の絵では写実描写に詩情を同居させたいと思うようになった。

美術サークルの葛藤

大学に進学したわたしは前述のとおり名古屋でひとり暮らしをしていた。自己投資のつもりで美術展に足を運ぶようになった。入館料に学生割引が適用されていたのも大きい。

わたしは大学でも美術部(美術サークル)に所属していたのだけど、高校の美術班(美術部)とはおおきく違っていて困惑していた。てっとり早く言うと失望していた。

高校のときは自治体の公募展に挑戦するのが目標になっていて、それが当然だと思っていた。ところが大学の美術サークルではそうした目標をもった制作は皆無。作品の完成度もけっして高くはなかった。部員それぞれが好き勝手に制作したものを貸画廊で飾るのが主だった活動だった。

その貸画廊での展示には近隣の大学の美術サークルからも参加者がいたり、また別の大学の展示会を訪れて交流したりしていた。交流のほうが目的と思しき部員も多かった。

公募展には出さないのかと先輩に尋ねても「それは美大や芸大のやること」と一蹴されるだけ。

総合大学とはいえ芸術系の専門学部はないから、専門の知識や経験を持った顧問など居ない。だから工学部や文学部、法学部の部員たちにとってはプロも出品する公募展などまったく別世界の出来事だった。それはちょっと考えればすぐにわかることだった。

わたしはサークル活動から距離をとった。自宅をアトリエにして油絵を描き、ひっそりと個人で公募展に出品するようになっていた。

そんな折、愛知県美術館で開催されたのが「アンドリュー・ワイエス展」だった。

ワイエス展が来た!

サークルのメンバーにワイエス展を観に行くのだという話をすると、何名かと一緒に愛知県美術館に行くことになった。はっきり覚えてはいないけど、他大学の学生も含めて5〜6人で観に行ったと思う。

ワイエス展には、高校のときに部室の書籍で観た”樹木の絵”が展示されていた。

愛知県美術館「アンドリュー・ワイエス展」図録より、《ペンシルヴェニアの風景(Pennsylvania Landscape)》

やはり印刷物で見るのとは違って、実物の情報量は段違いだ。こまかな線描で描かれたテンペラの画面からは絵筆のストロークが直接見えてくるようで興奮する。

それまでこの1枚の作品しか知らなかったワイエス。愛知県美術館には合計142点もが集められていた。壮観だ。

作品にはワイエス本人による解説が添えられていた。解説といっても制作の裏話のような説明がほとんど。その作品と展示解説から、ワイエスが限られた地域でひたすらに身近な風景や親しい人物を描き続けていることを知った。また、ひとつの視点からではなく複数の角度からの視点を組み合わせて1枚の作品を描いていることも知った。

まとまった作品を観るとまた違った印象になる。それまでひとつの完成された作品だった樹木の絵が、ワイエスが描き出す物語の一部に過ぎないように思えてくる。ワイエスは生涯を通して、彼のまわりの世界を記録し続けているんじゃないか、とそんなことを考えた。

米国北東部の片田舎をモチーフに淡々と記録し続けたワイエスの作品群は、画家の死で完結する壮大な物語なのかもしれない。

友人たちに自分の思い入れを話したかどうか定かではないけれど、わたしの性分として黙ってはいられないはず。きっと自分の目指すリアリズムとワイエスの世界観、ワイエスの一生をかけた物語について語ったように思う。

5年後のワイエス素描展

愛知県美術館での大規模な回顧展から5年後の2000年、岐阜県美術館で「アンドリュー・ワイエス水彩素描展」が開催された。

大学院に進学したわたしはまだ名古屋にいた。

もちろんこの展覧会にも足を運んだ。このときはひとりだった。鉄道とバスを乗り継いで、雨のなかたどり着いた岐阜県美術館。常設展示の彫刻作品が印象に残っている。

5年前に観たテンペラ画や水彩画よりも自由な描線が目立つ素描の数々。よりワイエスの視線と手の動きが感じられる。不安定な構図が多いのも、本画のための素材としての習作だったことを示している。犬の足跡がついたものもあって、気取ったところはまったくない。

愛知県美術館の展覧会に来ていた《さらされた場所(Weather Side)》という作品。この解説で、ワイエスは「私がスケッチを一番多くとったのは、何といってもオルソン家の肖像を描いていた時だ」と語っている。この「肖像」は人物の肖像だけでなく、家や風景も含めたオルソン家にまつわるすべてを描いた作品を意味している。

愛知県美術館「アンドリュー・ワイエス展」図録より、《さらされた場所》

スケッチでは、自分があたかも大工になったような気分で、文字どおり家を造り上げていった。実際に、板の数を数え、一枚一枚を丹念に研究した。絵の右手、割れたガラスに布切れが詰め込んである上の窓の近くに、二枚の白い板が見える。その板は実は私の家から運んできたものだ。アルヴァロ・オルソンに頼まれて、直したのである。

愛知県美術館「アンドリュー・ワイエス展」図録より

岐阜の水彩素描展では、その「スケッチ」をたくさん観ることができた。たとえば《さらされた場所》の習作として展示されていた8枚の素描。ワイエス本人が述懐している窓や雨樋、屋根に野草と、細かな習作を重ねたうえでの制作だったことがわかって興味深い。

岐阜県美術館「アンドリュー・ワイエス水彩素描展」図録より、いずれも「《さらされた場所》習作」と題された8枚のスケッチ

素描だからこその素朴さがかえってリアルさを引きたてている。画家の注目していたものが何なのかがよくわかる。布切れで塞いだ窓、板に打たれた釘のひとつひとつ、野花の生命力。本人が修理したという経験までが反映されているかのようだ。写真を拡大するような写実描写とは比べものにならないリアルさがひしひしと伝わってきた。

なお、この水彩素描展からさらに5年後の2005年、わたしは毎日のスケッチを公開するブログ「一日一画」をはじめた。

「一日一画」では、毎日毎日身近な題材を描いている。むろん写真などを介さずに目の前のものを写生している。はじめた当初ワイエスを意識したつもりは全然なかったけれど、もしかしたら無意識に影響されていたのかもしれない。

”思い出の展覧会”のもうひとつの理由

じつはこれらのアンドリュー・ワイエスの回顧展がわたしの”思い出の展覧会”なのには、また別の理由がある。

愛知県美術館に一緒に出かけた5〜6名の学生たち。そのうち何名かは後年ふたたびソーシャルメディアでつながったのだけれど、直接会うことはほとんどなくなった。ひとりの例外を除いては。

そのひとりとは、わたしの妻である。

このワイエス展をきっかけに親しくなり、ゆくゆくは結婚することになったのだから、人生はわからないものだ。

上に書いたように、わたしは大学の美術サークルとは距離をとって制作していたわけだけれど、そのまま黙ってひとりで美術館に行っていたら、もしかしたらメンバーのひとりとそこまで親しくなることはなかったかもしれない。

◇◆◇

アンドリュー・ワイエスは2009年1月に91歳で亡くなった。最後の完成作は2008年の《グッバイ、マイ・ラブ(Goodbye, My Love)》という風景画だ。死の直前に彼がどういった言葉を残したのかまでは知らないけれど、最後の作品タイトルだけで、一連の壮大な連作を完結させたんじゃないかと思えてくる。

わたしの「一日一画」のスケッチは通算6800枚を越えたところ。このところ油絵はあまり描けていないけれど、最後にグッバイと言えるような締めくくりの一枚を描かないとなぁ・・・なんて思ってしまう。

ワイエス没後10年の2019年、偶然書店でワイエスに関する洋書を見つけた。ワイエス生誕100年の2017年に出版された『Andrew Wyeth: People and Places』(Rizzoli Electra刊)。この本を見かけて、このnoteに書いたようなことをいろいろと思い出した。掲載作の大半は図録にあったものだけど、結局わたしはその書籍を購入した。

その時のFaceBook投稿のスクリーンショット

その日の晩、妻に話したところ、なんと彼女は愛知県美術館のワイエス展についてまったく覚えていなかった。記憶なんて案外そんなものか。世は夢ぞかし。わたしの記憶だってじつは不正確なところがあるかもしれない・・・とちょっと不安になった。

妻がどう思っているかはともかく、わたしの記憶ではこのとおり名古屋と岐阜で観たふたつのワイエス展はとてもとても印象的なものだった。

今回の見出し画像は我が家にあるワイエス関連書籍。愛知県美術館と岐阜県美術館で観たふたつのワイエス展の図録と2019年に買った洋書をならべて撮影した。

左から1995年の「アンドリュー・ワイエス展」と2000年の「アンドリュー・ワイエス水彩素描展」の図録、そして2019年に買った書籍『Andrew Wyeth: People and places』。

こうしてnoteのエントリを書いて振り返ってみると、思いのほか自分はワイエスの影響を受けているのだと感じる。言葉で整理してあらためて確認できたこともある。オトナの美術研究会の月イチお題記事執筆企画には感謝しないといけない。

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