見出し画像

その素朴な誕生石は我々を見捨てたりはしない

「Jesus' Blood Never Failed Me Yet(イエスの血は決して私を見捨てたことがない)」というタイトルの現代音楽がある。かつてコントラバス奏者だったギャヴィン・ブライヤーズによる作品で、1975年のレコード版は25分、1993年のCD版は70分を超える長大さだ。

この曲には路上生活者の老人が口ずさんだ宗教歌のフレーズが繰り返し使われている。テープループの手法で延々と反復される「イエスの血は決して私を見捨てたことがない」にオーケストラやコーラスがかぶせられて、独特の重厚さを醸している。

反復し増幅する“Jesus' blood〜”のフレーズを聴いていると、キリスト教にとっていかにイエスの血が重要なのかがわかる気がする。受難で血を流したイエス。贖罪の対価としてのイエスの血。わたしはクリスチャンではないので的外れなことを言っているかもしれないけれど、もしもイエスの血に代わるものが身近にあれば、それは信者の救済になるのかもしれない。

この素朴な宗教歌はおまもりのような歌だったのだろう。

イエスの血を連想させるなにか。じつはそんな石がある。文字どおりのブラッドストーンという石だ。このネーミングから察するに、キリスト教徒のアミュレットだったことがありそうだ。

十字架の下の緑の大地にイエスの鮮血が落ちて、痕跡が残った。そうして残されたのがブラッドストーンだという伝説がある。

前置きが長くなったけど、今回はこのブラッドストーンについて。

3月の誕生石としてよく知られているのは、昨年書いたアクアマリン。

もうひとつ、このブラッドストーンも3月の誕生石に数えられる。これは最近くわえられたものではなく、ずっと古くからのことらしい。

ブラッドストーンはどうして3月の誕生石なのだろう。

20世紀初めに米国の宝石商協会が誕生石を選定する際、聖書の記述や伝承が参考にされた。そのなかにすでに入っていたらしい。

たとえば1813年に21歳で夭折したドイツの詩人テオドール・ケルナー。その名も『各月の石』という詩のなかで、彼は1月から12月までそれぞれに石を割り当てている。

1月から順に、ヒヤシンス、アメシスト、ヘリオトロープ、サファイア、エメラルド、カルセドニー、カーネリアン、オニキス、クリソライト、アクアマリン、トパーズ、クリソプレーズといった具合だ。

いくつか耳慣れない古い呼び名が書かれている。1月に割り当てられているヒヤシンスは花ではなくジルコンの別名。ジルコンの和名、風信子石はここから来ている。同様に9月のクリソライトはペリドットの別名。

そして3月のヘリオトロープこそブラッドストーンのことだ。古典ギリシャ語でヘリオは「太陽」、トロープは「向かう」という意味らしい。太陽に向かう石?どういうわけかブラッドストーンはかつてこう呼ばれていた。

わたしは10年あまり宝石鑑別の仕事をしているけれど、ブラッドストーンは鑑別したかことがあるのかどうか、ほとんど記憶にない。現代の宝石市場では、わざわざ鑑別レポートをとるまでの価値が見出されない存在だ。ただ、検査する対象ではないけれど、ジュエリーの一部に使われているのはたまに見ることはある。

ブラッドストーンはだいたいが不透明で暗めのグリーンをしており、不規則な赤褐色のパターンがある。これが血飛沫しぶきを思わせるのでブラッドストーン。

その血のイメージから、古くから戦場でのお護りにされてきたという。

このおどろおどろしい見掛けと名称さらに逸話は、華やかな現代の宝石のイメージとは対極にある。誕生石にカウントされているのが不可解ですらある。謎めいた誕生石だ。

ブラッドストーンのグリーンの不透明部分は緻密なクォーツ(石英/水晶)の集まり。厳密にはカルセドニー(多結晶のクォーツ)になる。とりわけ不純物が多く不透明なものはジャスパー(玉髄ぎょくずい)と呼ばれることがある。なお、半透明で縞状の模様があるものはアゲート(瑪瑙めのう)。

鑑別ではどちらもカルセドニーの宝石種で記載される。典型的なものについてはジャスパー、アゲートの変種名がつく。ブラッドストーンも独自の変種名だ。

ちなみにタイにエメラルド・ブッダと呼ばれている仏像があるけれど、あれはエメラルドではなくグリーンのジャスパーで作られたもの。下のリンクはある研究者による報告記事(サムネイルは別の仏像)。なお、エメラルド・ブッダの公式サイトにはjade(ヒスイ)とあるけれどそれは誤り。

ブラッドストーンの血飛沫しぶきに見える部分はヘマタイト(赤鉄鉱)という鉱物だ。ヘマタイトは磨かれて黒光りしているものが売られているけど、そのものの色は和名のとおり赤褐色をしている。

条痕といって、素焼きの白い板(条痕板)にこすりつけて粉末になった鉱物の色を調べる方法がある。ヘマタイトはパイライト(黄鉄鉱)とならんで地学のテキストでかならず条痕色の例として紹介される鉱物でもある。黒光りするヘマタイトの条痕色は赤褐色だ。

『Gemstones of the World』(Schumann, 2009)より、条痕板とパイライトの黒い条痕色。

この赤褐色は赤錆の色。ヘマタイト(赤鉄鉱)は文字どおり酸化鉄だから、条痕色は赤錆の色を見ているようなものだ。

脊椎動物の血液の赤色も鉄を含むタンパク質ヘモグロビンに由来する。このヘマタイト部分が血液に関連づけられた“ブラッド”ストーンの呼び名は必然だったのかもしれない。

いま条痕色の説明に使った資料、W・シューマン著『Gemstones of the World』(2009年、Sterling Publishing刊)は、科学的な情報にくわえて宝石にまつわる文化的・歴史的背景もとても充実している。

この本によると、月別の誕生石が登場する前には占星術で知られる黄道 こうどう十二宮に石が割り当てられていた。ブラッドストーンは黄道十二宮のうちのおひつじ座を担当していたらしい。

ふたたび『Gemstones of the World』(Schumann, 2009)より黄道十二宮の石リスト(一部)。Aries(白羊宮、おひつじ座)のAdditional Zodiac StonesにBloodstoneの文字列が見える。

黄道というのは天球での太陽の通り道。その通過点にある星座が黄道十二宮だ。太陽がおひつじ座にあるのはだいたい春分後の3月後半から4月半ば。

黄道十二宮の石ではわかりにくいため、各月の石に読み替えられるようになった。そうしておひつじ座の石だったブラッドストーンが3月の石になったと考えるのは難しいことではない。

ではブラッドストーンがおひつじ座の石だったのはなぜなのか。

これまた憶測ではあるけれど、古代ギリシャで呼ばれていたヘリオトロープという呼び名はその疑問を解くヒントになるかもしれない。

先に書いたようにヘリオトロープは「太陽に向かう」の意味だった。

太陽は春分の日に赤道を越えて北半球に近くなり、そのタイミングで天球上のおひつじ座に重なる。春分の日に太陽に重なる星座。太陽ににむかって星座のほうが移動すると考えると、太陽に向かう(=ヘリオトロープ)星座というわけ。

ヘリオトロープの名ははじめから血飛沫しぶき模様のある石を指していたわけではなく、全体的に赤いジャスパーを指していたという説がある。赤く見える朝陽や夕陽が赤い塊に関連づけされていたとすると、そのネーミングにも合点がゆく。

上に挙げた黄道十二宮のおひつじ座の石として赤いジャスパーとカーネリアン(いずれもカルセドニー)があり、追加でこのブラッドストーンがある。列挙されているなかにルビーがあるのも興味深い。

それがおひつじ座の石から3月の石になり、いつしか赤い斑点のあるものがキリスト教世界でブラッドストーンと呼ばれるようになった。それが現代の誕生石に引き継がれた、という仮説はどうだろうか。

冒頭に触れた現代音楽「Jesus' Blood Never Failed Me Yet」に話を戻す。

レコードが出る4年前の1971年に英国で撮影されたドキュメンタリーがある。撮影クルーが海辺や下町を歩いて、そこで出会った人たちに今も覚えている曲を歌ってもらうという内容。

そのなかには路上生活者たちに子供の頃に親しんだ曲を歌ってもらった場面がある。物質的にはすべてを失っても、多くの人びとが歌とその思い出だけは持ち続けている。

路上生活者の老人が歌う素朴な宗教歌「イエスの血は決して私を見捨てたことがない」のフレーズは、このドキュメンタリーのために録られた映像のひとつだった。結局ドキュメンタリーには使われなかったものの、ギャヴィンに拾われた形でテープループの素材になった。

最初のレコードは、計画よりも遅れて1975年、ブライアン・イーノのプロデュースでリリースされた。宗教歌を口ずさんだ老人はその前に亡くなっていたらしい。この曲は1972年の12月にクイーン・エリザベス・ホールで初演されたそうだけど、その時はまだ存命していたのだろうか。

彼の口ずさんだ歌が20世紀の技術で現代音楽となり、多くの人びとの感動を呼んだ。以後、異なるバージョンでさまざまな演奏と録音がされた。繰り返されるその老人の歌声には、ひょっとして神聖さが宿っていったのではないか、特にキリスト教徒にとっては、なんて考えてしまう。

歌われた「イエスの血」は彼を見捨てはしなかったようだ。

我々の罪をその血であがなったイエス。イエスの犠牲によって生贄いけにえが捧げられることはなくなった。イエスの血はあらたな命を、あらたな生を引き継いだ。それを象徴する「イエスの血は裏切らない」というフレーズの繰り返し。

その繰り返しは命の繰り返しだ。

これを聴いていて、あろうことか東洋的な輪廻転生を連想してしまった。一神教に輪廻思想がないことは百も承知だけど、連想しちゃったものは仕方がない。

キリスト教的な西洋人の思想では出てこないはずの輪廻思想。でもそれは本当だろうか。

古代から現代までの歴史で、洋の東西で、繰り返されてきた生と死を思えば、「生まれ変わり」とか「因果応報」という概念がなくとも、おのずと似たような感覚にたどり着きそうな気がする。わたしたちの生き死にについて、人びとはそれをつかさどる超越した存在を感じ、いっぽうは輪廻、いっぽうは神の思し召しとして説明したにすぎない。

輪廻思想と血。わたしの頭に浮かんだのは、手塚治虫のライフワークだった『火の鳥』。火の鳥の生き血を飲むと得られる永遠の命。12編をとおして、それを求める古今東西の人間の業が描かれている。そこに込められているのは、「われわれはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」という根源的なテーマ。火の鳥の姿には、漠然とした「超越した存在」が例えられている。もはや『火の鳥』も宗教のひとつみたいだ。

『COM』1970年11月号の「火の鳥 休憩」の一部。手塚治虫は「火の鳥の姿を借りて宇宙エネルギーについて描いている」と開陳している。ページの写真は2022年のサンエイムック「火の鳥大解剖」より。

イエスの血も火の鳥も生命のメタファー。そうすると、古くは太陽を含む天体の運行を暗示し、その後は戦争の護符にもなり、贖罪の象徴にもなったブラッドストーンも、生命のメタファーだったのかもしれない。

「Jesus' Blood Never Fails Me Yet」の歌がどれほど歌われていたものなのかはわからない。ロンドンの下町にいた老人のまわりでしか歌われなかった、ささやかなお護りのような歌だったかもしれない。その素朴さは、いまや宝石としては素朴な存在になったブラッドストーンにちょっと似ている。

ブラッドストーンも、きっと持ち主に「決して見捨てたことはない」と思わせる石だったんじゃないか。商業的にはさほど重要でないこの石がはじめから誕生石のリストに入っているのは、そうした素朴なお護りとしての価値があったからなんじゃないか。

あえて現代の商業的な誕生石に不釣り合いなブラッドストーンが残されているのは、この石に感じられたなにかヽヽヽを残しておくべきだと悟った人びとが宝石商のなかに居たからだろう。宝石業界が「見捨てられないように」お護りとして残しておいた特別な石なのかもなと思えてくる。

なお今も誕生石はその数が増やされたりして、人気に翳りはなさそうだ。お護りとしてのブラッドストーンの価値はどうやら健在のようだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?