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書くことについて

文章を書くことは、ずっと好きだった。
高校時代から日記をつけていたし、大学時代には日本文学を専攻して、文章演習の授業で作品を発表するのが楽しくてしょうがなかった。
好きなだけじゃなくて、割と得意な方だとも思っていたし、今は長らく書いてなかった分多少衰えてはいると思うものの、少なくとも読める文章にはなっていると信じている。
だけど、私はちょっとカッコつけすぎる癖があって、自分の知識だとか、考えの高尚さ、そういうものを重視しすぎてしまい、肝心の自分の感情や感覚的なところが全く表現できなくなってしまった時期があった。
そのときは文章を書いても、人から見られる自分像ばっかり想像してしまってちっとも楽しくなかったし、そんな自分が書いた文章を読んでも、以前みたいに「最高!」という気分にならなくなってしまった。

論文を書いているわけじゃないんだし、エッセイで何をかっこつけることがあるかと思われるかもしれないけど、私は小説家の西加奈子さんが好きで、彼女の書くような、知的で、繊細で、それなのにわかりやすくて、ウィットに富みまくっているような文章に憧れがあって、私も西加奈子さんのような物書きに見られたい、という強い思いが自分の書く文章に全面に出てしまっていたのだと思う。
でも当然ながら私には西加奈子さんほどの才能はなく、「西加奈子に憧れているやつ」感が自分でも気づけるほどに痛々しくむき出しになってしまったとき、私は文章を書くことを一旦やめた。

私は何のために文章を書いているのだろう?読んでいる人にかっこいいと思われるため?それはもちろん、多少はある。(あるんかい)
でも、それが全てなのか?いや、そうじゃない。私はまず、自分と向き合うべきだ。自分は何のために生まれてきたのかだとか、自分が何者なのか考えるとか、そういう難しい哲学的なことじゃなくて、例えば今日食べたラーメンはどんな味がしたかだとか、aikoの新曲を聴いてどんな気持ちになったかだとか、眠れない夜にどんなことを考えたかだとか、眠れたならどんな夢を見たかだとか、そういうことだ。文章表現の題材として、私はそういうことに、あまりにも関心を向けてこなさすぎたんだと思う。
人類は何で生きてるのとか、死んだらどうなるのとか、そういうことばっかり考えては、そんなことを考えている自分に多少酔っている部分もあったりして、でもそんなことは学者が考えてもわからなかったようなことで(今後それがわかる未来が来ないとも言いきれないけど)頭を悩ませることは、もうほどほどにしておこうと思う。
それで、さっき新しいnoteのアカウントを開設して最初に書いたのが、「継続する技術」に関してだったのだけど、これはもう我ながら、見事なスタートダッシュだったんじゃないかと思う。書いたことは、「毎日腹筋20回やります」。それだけ。哲学的な問い、ゼロ。

そうだ、別にみんなから称賛されるような偉大な作品を残そうとしなくていいんだよ。今日は何をして、何を感じた?今はどんなことを感じてる?今、文章を書いていて楽しい?ワクワクする?
そういう指針で、もう今後はやっていこうと思う。
うん、やっぱり楽しいね。書くって。

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