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米国コロンビア大学院合格までの道〜研究編〜

こんにちは!現在アメリカのコロンビア大学教育大学院(Teachers College, Columbia University)に通っている日本人留学生のYutaです。前回の投稿からかなり時間が経ってしまいましたが、しんどかった大学院1学期目も終了し、生活も落ち着いたので、アメリカ大学院までの道のりに関して再び書き記そうと思います。コロンビアでの生活や心境の変化などについても近々投稿できればと思います。

特別なバックグラウンドのない、フツーの大学生がアメリカの名門コロンビア大学院に合格した話。今回は研究編ということで、私自身の研究経験に焦点を当てたいと思います。といってもタダの卒論なんですが…。ただこの卒論研究で得た経験は、志望動機(SoP)や競争率の高い給付型奨学金にも繋がり私の中でもかなり大きな一歩となりましたので、受験生含む皆様にも何かしらのインスピレーションになればと思います。


準備編〜ゼロからのスタート〜

私が卒業論文で作成したのは超簡単にいうと「公教育で東欧ボスニアの民族融和は解決しうるか?」という問題を教育者の社会観・平和観から考察するものでした。ボスニア含むバルカン半島は、1990年代に市民紛争を経験し、紛争調停はされたものの、民族間(ボスニャック人・クロアチア人・セルビア人)の緊張関係が戦争の負の遺産として残っています。教育政策も同様で、実際にはカリキュラムの統一が図られているものの、現場レベルとの乖離が課題とされていました。そこで現場での教育実践を見るため最終的にはボスニアに渡航することになるのですが、この準備編では、渡航までの背景と準備を記します。

研究経験ゼロ

自己紹介編でも触れた通り、私は母校の名大教育学部に入学した時点で「教育と平和」について研究したいという動機がありました。学生団体で構造的暴力(貧困や格差)に目を向け教育開発に興味を持つ中で、現場主義(現地の考え方や可能性)に拘りたい思いがありました。それと同時に、国際NGOで教育活動を通した紛争解決の道を知ったことで、教育はどこまで社会課題解決の可能性があるのかという漠然とした問題意識もありました。

しかし大学3年の時の私は、研究のケの字も分からないような人間でした(今も分かりませんが笑)。母校は学部生にリサーチアシスタントのような研究機会をあまり用意していなかったので、私は大学3年次から始まったゼミで研究そのものの難しさを知ることになります。私のゼミでは「国際社会」という舞台設定があったので、周りも国外の教育に焦点を当てたり比較教育を試みたりする同期が多かったのですが、やはり文献レベルに留まるものが多く、(大学院進学が既に念頭にあった私は)何か彼らと差別化を図れないかと考えていました。そこで、周りの友人の一押しもあり現場に行こうと決意しました。

研究スキルゼロ

しかし現場に行くとなったら中途半端な研究計画ではダメだと感じた私は、卒論指導の教授はもちろん、同じ研究領域の学者や実務者を探すことから始めました。その情報収集の段階で、小松太郎先生の書籍『教育で平和をつくる―国際教育協力のしごと (岩波ジュニア新書)』に出会いました。

ここでまさに紛争後社会で「教育と平和」のプラクティションがあるボスニアという国に出会います。その後は、著者の小松先生に直接コンタクトを取ったり、関連領域・地域で取り組みを行っていた国連・JICA職員、教授の皆様から話を聞いたりするようになり、最終的には本章導入部で記した通り、ボスニアを研究地に選ぶことにしました。

そして研究スキルも1mmも無かった私は、隣の大学院(名大国際開発研究科)の教授に無理言って、ゼミに参加させて貰うことになりました。日本と言えどAll Englishだったのですが、偉そうに「俺はボスニアで研究するんだ」みたいなヒヨッコレベルのプレゼンを大学院生・教授の前で行い、大量の痛烈なフィードバックを受けることで研究計画や研究方法のブラッシュアップを試みました。同時に東欧はもちろん、海外に1人で足を踏み入れたことがなかったため、卒論指導の教授ヅテで、東欧にルーツを持つ/滞在経験のある先生から様々なお話を伺い、安全面・生活水準などの課題を事前に把握していました。

当然自分でググったり書籍を無限に読んだりもしましたが、あまりオツムの強くない私は、この通りひたすら人から直接話を聞いて、色々なコミュニティに顔を出すことで豊富な情報を獲得しました。

ネットワーク(コネ)ゼロ

今までボスニアにルーツもない私は、現地の方々とのコネクションなどありませんでした。そして準備段階で最も苦労したのは、研究活動の合意やアポを取ることでした。研究対象の学校を現地政府機関の方々にいくつか紹介してもらったものの、ほぼコミュニケーションが出来ない(そもそもメールが返ってこない)状態でした。まあ考えてみれば当然で、学校側からすれば、遠い遠いヤパン(日本人)の謎大学生が1人で授業を見にくる&情勢的に民族問題のトピックはタブーの極み、ということで学校側が研究を受け入れるメリットはありません。

そこで、期間こそ短かったものの、現地語のボスニア語を少なくとも読めるように爆速(1~2ヶ月程度)で習得を試み、Google翻訳の助けも借りながら現地語でメールを書き、自分自身で学校に「こういう研究をするので授業を見させてください」と送ることに。合計20校を超える初中等学校に現地語で研究依頼を送りました。それと同時に、政府機関の承諾は当然必要でしたので、サラエボの教育省に研究内容・方法やethicsなどの説明をした上で授業の参与観察についての承諾を依頼しました。結果、奇跡的に(研究サンプル的には大アウトなのですが)1校から研究の承諾を頂き、また教育省からも同様の承諾と政府教育機関へのインタビューの許可をいただくことができました。

ボスニア渡航編

ドタバタの準備を終えいよいよ渡航へ。途中(卒業旅行的な目的も兼ね)フランス→スイス→イタリアを経てボスニアの首都サラエボに着きました。

初の独り海外…不安と"不便"との闘い

ちょっと話が脱線しますが、到着と共に幸先の悪いスタートを迎えることになりました。まず着いた時間が夜の11時半だったため治安も若干悪くなっていた状況で、携帯も繋がりませんでした。空港を出ると、いかにも怪しそうな白タクっぽい皆様がたくさん待ち構えていました。

既にその状況を知っていた私は、タクシー群を避け、携帯の地図を事前にスクリーンショットして徒歩でホテルに向かいました。が、なんとこの選択も誤りでした。道中45分ほどイリジャ (Ilidža) という郊外を歩いたのですが、最初に出会ったのはヤバめのストリートチルドレン。少年はニヤニヤしながら「マネー」と強請ってきました。ポケット内に何かをチラつかせていたので、瞬時に危険を感じた私は軍隊並みの重量の荷物と共にダッシュ。彼が追ってくることはなく難を逃れましたが、現地人によればIlidžaはあまり治安のよろしくない場所でした。この状況では、タクシーの運転手に事前に値段交渉をした上で嫌々利用することが最善策だったようです。

翌朝、携帯の電波を得るべく現地SIMを買おうとしたのですが、トラム含むサラエボの公共交通機関は、昨夜出会ったような少年らの溜まり場だと聞き、ホテルの車を借りて街に行くことに。初の左ハンドル右車線で携帯ショップを目指しましたが街の運転は中々慣れたものじゃなく、路上(違法)駐車含め交通ルールガン無視の車たちを潜り抜け、まるでダンジョンのように辿り着きました。そして、事前にある程度の連絡を取っていたはずの国連機関を訪れると、もう午後4時だから閉まったとのこと。ひどい労働っぷりだなと苦笑しながらも訪問は諦めました。公共機関の不便さやのんびりとした仕事文化を感じましたが、一旦全て文化の違いにして気持ちを落ち着かせ、現地の食や観光を少し堪能しました。

中心街はとても栄えていました

初中等学校の訪問

研究に話を戻すと、研究方法は質的調査で、授業実践とインタビューから教職員の社会観・平和観を得ることを目的としていました。ですが、元々観察予定だった(合意も取っていた)社会科の授業は学校側の調整ミスで見れず、諦めて国語科・宗教科(イスラム教)の授業を見せて貰うことになりました。授業を受けていた2・6年生の生徒たちは、謎のヤパニーズ(日本人)の登場にかなり興奮していました。ウェルカムな雰囲気で迎え入れてくれ、英語の得意な生徒は自己紹介も披露してくれました。

事前の文献調査では、教員の権威的な態度や一方的な教授姿勢がボスニアの公教育における課題の一つとして議論されていましたが、むしろ観察した先生達は生徒の自由な発言を好む姿勢が見られました。ただしイスラーム教を教えていた先生の授業は、2年生の授業と言えど若干緊張感があり、クルアーン(聖典)の音読の際にはワンパク気味な生徒が叱責される様子もありました。その後、授業観察をさせて頂いた先生にインタビューを行いましたが、ここで私は民族的・社会的な緊張感の片鱗を見ました。宗教科の先生と「民族融和の課題」に関して話を進めていたところ、先生は少し不満気に、強めの口調でこう話しました。

これは教育についての質問ではありません。私は教室での内容と知識についてのみお話しします。私たちは「⺠族」ではありません。「ボスニア市⺠」です。 この種の誤った質問については答えません。
私たち(の⺠族構成)は3つだけではないです。そして私たちは "⺠族の" 人々ではない。

卒業論文より抜粋(筆者意訳)

私の聞き方も悪かったのでしょうが、先生の逆鱗に触れたような感じでした。ボスニアにおける3つの民族アイデンティティは米国の教育開発と共に「ボスニア市民」という括りで統一され、カリキュラムも統一アイデンティに従って改訂をされていました。紛争発生前後から3民族が別の教室・別のカリキュラムでいわゆる民族隔離・排他的な教化を行なっていたため、教育政策やカリキュラムの統一が図られたという背景がありますが、現実には未だに民族と政治が強く結び付けられており、そのセンシティビティを宗教科の先生のコメントから感じました。後々校長先生にもお話を伺ったところ、学校において政治的・社会的な話をすることは困難、保護者から反対されないよう意図的に避けているとのことでした。

一方で、現在の若者の社会参加、民族間の理解に関してはポジティブな可能性も感じられました。教育省の方とのお話を通して、現代の若者はソーシャルメディアの発達に伴い、家族や限られた社会集団の中では得られない異文化に対する認識や社会資本を獲得することができると分かりました。

紛争跡地や博物館にも訪れました。
時に気持ちの浮き沈みもありました。

帰国後編

学びたいことが明確に

渡航中は治安の悪さ、公共サービスの不便さ、コーディネーションミスなどもありましたが、現地の生徒・教師・政府関係者との出会いや得られた経験はかけがえないものでした。日本人研究者として、教育省管轄のSNSに訪問と研究内容を掲載していただいたりもしましたし、旅行中に日本が謎に好きなボスニア青年とも出会うこともでき、一生物の思い出となりました(彼は論文の翻訳作業にも協力してくれました)。そしてこれらの経験を通して、私が第一志望だったコロンビア大学院で学びたいこと、持つべき視座が明確になったのを覚えています。

  • グローバルな教育政策と教育現場における実践の乖離

  • 紛争中・後や複雑な社会政治下おける教育(特にsocial-emotionalなアプローチ)の取り組み

  • グローバル・シティズンシップ教育と異文化理解との関係

これらの要素を、SoPやResume、奨学金の応募書類に書きました。今となっては未熟だと思う部分もありますが、一方でこれらはコロンビアと奨学金の合格にかなり大きな影響を与えたとも考えています。奨学金の採用面接においては、行動力や「教育と平和」分野への情熱をかなり評価していただきました。

海外大学院を目指す皆様へ

前回までの記事を通して一貫性の大切さなどを考察してきましたが、行動力もかなりの評価を受けました。アメリカの大学(学部)のアドミッションでは課外活動を評価する傾向にあるため、前述のような積極性とアメリカでの評価軸との相性がよかったのも、合格できた理由の一つだったのではないかと思います。大学院留学の専門家ではないものの私ができるアドバイスとしては、大学院は受かることがメインではなく、人生をかけた目的達成のための手段ですので、大学院での学ぶ姿勢や卒業後のビジョンを、過去の経験を通してアピールすることが大事かと思います。そして何より「自分は人生を賭けて何がしたいのか」「その目標になぜ志望校が本当に必要なのか」を具体的かつロジカルに言語化できるまで考え抜くことを強く勧めたいと思います。考えれば考えるほど答えの見つからない問いかもしれませんが、実際、私が知っている範囲で同じプログラムの合格者と不合格者を比べてみると、不合格者はこの軸(何がしたいか)が揺れ動いている印象を受けました。私にとっても、より掘り下げるべき永遠のテーマです。

次回からは、この2023年を振り返るべくコロンビアでの学びやニューヨークでの活動をお届けしたいと思います。


ご覧いただき、ありがとうございました。ごく稀ながら、留学や国際協力に関して呟いたりしておりますので、ご関心のある方はTwitterをフォローいただければと思います。


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