どこまで他人に尽くせるか

投稿が止まりすぎて過労死したと思われていそう
年末年始に気が緩んでから疎かになっていました

最近、ロジカルシンキングとかの本を読み直していて、近頃のマイブームが「思考」であることに気づいたのでそれに関して一つ

家族でも恋人でも友人でも、誰かに対してどこまで「尽くせるか」を考えたことはあるだろうか
「友人だからこれくらい」
「恋人とはいってもそこまでは」
きっと基準は千差万別。とはいえ、ある程度の世間一般も存在するのがこの辺りの議論で、答えは出ないことが多い

しかし、そんな答えの出ない問いについて考えたのは、先日、友人からこんな話を聞いたからだ

仮にその友人をAとする

Aが足を怪我していた際、Aの恋人Bは何度かレンタカーを借りてAを家まで送ってくれたらしい
ある日、Aは怪我をしたまま友達と旅行に出掛けたが、恋人Bは行きも帰りも空港まで迎えに来てくれなかったとのこと
A曰く、恋人なんだから心配して車くらい出してほしい、少なくとも迎えに行こうかという言葉があってもよかったのではないかと

なるほど、確かに恋人同士である以上、一緒に居ない時でも相手を気に掛ける方が良さそうではあるし、おそらく一般に照らしても妥当な気がする

それでも、Aの話を聞いて何だかモヤモヤするのは何故なのか
そこで一つAに尋ねてみることにした

ここに一組のカップルがいるとする。カップルの片方に多額の借金があることが判明し、明日にでも利息の5万円払わないと大変なことになってしまう。この時、恋人に5万円を貸す(あげる)べきと思うか

Aの答えはNoだった
お金は信頼・信用に関わるから肩代わりすべきではないと

それを踏まえてもう一つだけ、レンタカーを出してもらったことに対して何かお礼はしたのかとAに尋ねると、ありがとうと伝えたとのこと

ここまで来てようやくモヤモヤが晴れてきた
自身の考えとしてAに伝えたのはこんなこと

車を出したりするのはあくまで善意。そして、その善意の水準は人によるし、関係性による。借金の例でも、自分なら代わりに払うという気前の良い人もいるだろうし、恋人なら肩代わりすべきという肯定派もいると思う
ちょっと家まで送るのと、わざわざ空港まで迎えに行くのとでは金額的にも時間的にも負担が違う気がする

それと、いくら善意と言っても、片方に負担が寄ると一方的に感じる場面もある。受けた善意に対しては誠意のこもったありがとうを示すべきだと思う
相手がお金と時間と労力を掛けてわざわざしてくれたのなら、返せるお金くらいは返そうとする姿勢は見せた方がいいんじゃないか。レンタカー代も馬鹿にならない

大前提として、多くの問題は程度問題だと思う
ここまでを踏まえて言いたいことは、片方が悪く見える問題に出会ったら、思考実験で返すとフラットな会話に戻せる気がする、ということ

上の例を振り返ると、①善意と当然の境目が恋人であることで曇っていること、②善意(で消費したリソース)に対して何ら実体的なお返しがなされていないこと、が論点としてあって、②は自明だから、後はいかに①を共通認識にできるかがポイント
我ながら即興の思考実験としては良い出来だったんじゃないかと思っている

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