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生物的選好

最近、会社の同期といわゆる合コン的なことを何度か開催している。社会人になると出会いが無くなるよ、という先達の言葉が真だったからだ

とまれ、そうやってパートナー探しをしていると、以前にもまして気になる要素があることに気づく。パーツの造詣が綺麗か否かだ

異性に対する好みは以前から大きく変わっていないと思うが、その中でも一つひとつのパーツに目が留まってしまう
二重がぱっちりしているか、鼻は高いか、歯並びは綺麗か etc.

これらが欠けているから好きにならない訳ではなくて、素敵だなと思った相手が、そうした部分的魅力を伴っていた時にもっと素敵だなと感じるイメージ

反対に、以前は良いなと思っていた相手の写真を見たときにそうした要素で悪目立ちする部分を見つけると、もちろん幻滅なんてしないけど、昔はそんなこと気にしていただろうかと自分の目敏さに嫌悪感を覚える

ルッキズム云々を語りたいわけではなくて、この変化を自覚して一番に思ったのは、恋人選びが「ヒト」らしくなったのではないか、ということだった
生物として種を残せと遺伝子が叫んでいて、その声に呼応して、遺伝子的に健康そうな相手を選ばせようとしているのではないか。見目が良いというのは往々にして健康を示すっていうじゃないですか
ここでいう「見目が良い」には、顔立ちが整っているというニュアンスを強く込めているので、好みかどうかという意味での顔立ちの評価とは少し異なるようにも思うけど

自分が20歳過ぎの頃、同性の少し年上の先輩が「結婚したい」「子供が欲しい」と二人でいるときに明け透けに話していたのがすごく印象的で、いまだに覚えている
自分もその先輩とほぼ同じ年齢になり、その感覚が分かるようになってきた気がする。子供が欲しいとまでは明確に思っていないけれど、それでも結婚したい気持ちは湧いてきているし、相手選びの際に、結婚相手としてどうかという視点が若干混じっている気もする(これに関しては生物的というよりも社会的な要素が影響していそうだけど)

生物種としての「ヒト」にとって、何歳頃が種を残すための適齢期は分からないけれど、ちょうど今の年齢位なのだろうかと感じた次第です

因みに、激務により生命の危機を感知したせいで早急に種の保存をさせようと遺伝子がブチ切れている可能性はある
現場からは以上です



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