見出し画像

【京大合格から海外大学院留学まで根性だけでやり抜いたって話】

「なにか大学院で研究したいこととかあるの?」
「いや、ないけど」
「じゃあ、カナダに留学しろ」

振り返れば、自分の学生生活は反骨精神ド根性の塊だ。

苦行を乗り越えたからこそ今の自分があり、人生観を確立したのはまさしくこの時だ。今回は、記憶薄れぬうちに半生を振り返ろうと思う。

まず何故、京都大学を志望したのか。高2の時に学校か塾の調査で志望校を何かの紙に書いたのがきっかけだ。その時以来、志望校は一切ブレることなく京大だけだった。ただ、別に京大に思い入れがあったわけではない。

自分は15歳で家業を継ぐと答えてしまい(この時の話はこちら)、自分の将来を自分で決めるという感覚がまるでなかった。自分が何をしたいのか、そのために必要なことは何か。一切、まともに考えたことが無かった。

結果、自分は大学というものにかなり疎く、従兄弟の通っている大学、東大、京大、地元の大学ぐらいしか知らなかった。言ってしまえば、世間知らずのおぼっちゃんである。

とりあえず目標は高くという考えで、東大か京大にしようとは考えた。そして、自分は関西への憧れがかなりあった。面白い人に会いたい。関西のユーモアにどっぷり浸かりたい。だから、関西にしよう。

そんな軽い気持ちで、第一志望に京都大学、第二志望に当時従兄弟が通っていた大学の名前を記入し、何故この2つなのか?と先生に不思議がられたのを覚えている。

一応、地元の進学校に通っており、高3のクラス分けには、東大・京大・医学部志望の生徒集めた選抜クラスが用意されていた。何とかそこに自分をねじ込むことが出来た。

毎年、合わせて10人強ほど東大と京大の現役合格者を出す我が母校。ということは、この学校でトップ20ぐらいには入らないと合格圏には入らないか、と少し不安になる。

京大模試、センター模試あるあるなのだが、京大志望でA判定、B判定というのはまず出ない。超上位にしか出ないのだろう。たとえ、E判定でもあきらめる必要はない、判定は厳しめに出るからというのが風潮であった。

自分はそこそこできたが、確実に合格を狙えるほど十分かどうかは微妙だった。このままの調子で行けば、本当に京大に受かるのか…?確かなグリップ感のないまま本格的な受験シーズンに突入した。

我が家の方針で浪人はNGであった。その代わりに追加で私立を受けることには寛容。そのため、慶応と早稲田も受験することにした。

この時期になると、学校、塾でも進路相談というものがある。実際、自分も親を交えた三者面談を受けた。

受験校を伝えたときの担任の呆れようと言ったら忘れられない。京大受けて、私立も2校受ける?そんなもんで受かるわけないだろう。

こんなに落ちるぞ落ちるぞと脅されて、呆れられて、本当に生徒のためになっているのかと憤慨したものだ。三者面談に同席した母親も先生の態度に少しキレていた。

自分の通っていた塾は某大手のDVD視聴系の塾で、指導担当というのは厳密に言えば”教師”ではない。チューターとか言う相談役で、自分の担当は感情の起伏のないロボットみたいな人だったことを覚えている。この人もこの人で、「うん…うん…まぁ…京大、受けたいなら受ければ?」みたいな話ぶりだった。

この自分を下に見ているあからさまな態度がどうしても気に食わなかった。しかし、もし自分が合格したら、京大合格者を輩出したことはこいつらの手柄になるだろう。そんなのはもっと癪だ。

「あいつらの考えは間違っていました。」と、どうしても言いたい。

そこからは、はっきりと「お前なんかまったく頼りにしてない」という態度で接し、必要最低限のコミュニケーション以外シャットアウト。相談は一切しない主義を貫いた。

これで自分が合格した時、気おくれすることなく、あいつらは****でした。と堂々と言える。それが自分のモチベーションだ。

それからは必死に京大合格のために自力で勉強を重ねた。

志望は京大の工学部で理系だったが、2次試験へのセンターの配分は【国語50点】【英語50点】【地歴100点】の計200点のみという超変態圧縮配分だった。工学部って理系じゃないのか?

自分はセンター試験は日本史Bだったわけだが、ずっと60点あたりでくすぶっていた。もう、誰がどこの戦で勝って、それきっかけで何が起こって…こんなん覚えられん。今から地理に逃げるか…。それとも捨てて、他の勉強をするか…。何かを変えなければ…。

一念発起した自分は、日本史の語呂合わせの本を丸暗記することにセンター前の1か月を費やした。風呂に入るときも印刷したページをラミネートしてもらって覚えてた。歴史上の出来事の因果関係など気にせず、全てを4桁の数字で脳内にぶち込んだ。結果、センター試験本番で日本史を97点取った。

これは一例だが、ただただやれることをやった。英単語も毎日毎日毎日毎日懲りずに勉強したし、過去問は全部解いた。

そして、京大に合格した。

合否結果を連絡しろと言われていたので、自分の出せる一番低いテンションで先生には「合格しましたぁ…。」と電話で伝えた。

塾からは塾の宣伝のチラシに載せたいからインタビューさせてくれと言われたが、プライドが許さず断った。できあがったチラシの『京都大学合格1名 M君』の文字の横に、自分の同級生たちの華々しい写真と受験エピソードが載せられて正直ちょっと羨ましかった。

学校からは後輩のために合格体験記を書いてくれと言われた。書類を見たら、学校への要望も書いていいとあった。「もっと生徒の決めたことをサポートする姿勢が必要だと思う。」というような自分が感じた”先生への想い”を書いて提出した。

その後、学校が刊行した広報誌を見てみたら、クレームの部分がごっそり消されてそのまま載っていた。他の人と比べたら明らかに文字数が少なく、内容は「毎朝、Nintendo DSで英単語勉強していました。」だけの、ザ・きもいやつの文章に仕立て上げられていた。

復讐ってやつはどうも上手く決まらないらしい。

でも、ネガティブな感情に囚われることなく、怒りをも推進力に変えて目的を達成する。この重要性を理解した気がした。


入学したころはもさかった。これは多分3,4回生の時の写真。


京都大学に入学してからも自分の世間知らずっぷりは相変わらずで将来のことは何も考えていなかった。

「なにか大学院で研究したいこととかあるの?」
「いや、ないけど」
「じゃあ、カナダに留学しろ」

大学2回生の時、京都に父親が来て言われた言葉だ。

正直、こんなことがあるかもしれないとは思っていた。というのは、父親自身もマサチューセッツ工科大学に留学していたことを自分は知っていたからだ。ただ、最終的に修士は取れなかったらしい。

「海外大学院留学なんて超エリートコースだろう…自分に出来るのか…」

変な話、小学生の時は自分のことを天才だと思っていた。学校で一番頭がいいと思ってた。(調子乗ってすんません)

中学で感覚でトップ15位以内
高校で感覚でトップ50以内
大学では下から数えた方が絶対早い

という井戸の中の蛙が広い海に出れば出るほど、自分の実力の低さに気づくというシンプル構造だ。

しかも、父親は学校も指定してきて、University of Toronto(UofT)といういわばカナダ版の東大みたいなとこだった。

今の自分の実力で海外大学院を卒業するビジョンは全く見えない。しかし、家業を継ぐこと、社長が仕事でやっていることを考えると、越えなければならない障壁だと感じた。

ただ、そう伝えられてからはすぐには具体的に動けなかった。一応University of Torontoのウェブサイトを調べると英語だらけで訳が分からなかったが、大学を卒業することが必須であることは分かった。当たり前だが。

とりあえず、京都大学をしっかり卒業することがまずやるべきことだ…。正直、勉強の内容が難しすぎて、割と成績はギリギリだった。それと同時に自分も若いなりに大学生活を謳歌したくて、バイト、サークル、旅行と、典型的な日本人大学生として生きていた。


大学生らしい大学生活

大学3回生後期になり、大学4回生に所属する研究室選びの時期になった。研究室の選択はとても重要になる。

University of Torontoの合格のために必要なのは主に3つ。

  • 優秀なGPA

  • 教授からの推薦状

  • TOEFL iBT 93点以上(内、Writing22点以上 Speaking22点以上 )

である。日本の大学院のように院試の受験は必要ない。

そして、このTOEFLというやつが異常に厄介だったのである。受けたことのある人しか分からないと思うが、これはかなり難しい。特に純日本人にはSpeakingは本当に難しい。

今から学生2人の会話を聞きます。学生Aの悩みについて、学生Bが2つの提案をしていますが、そのどちらをあなたは支持し、その理由は何か説明してください。

準備時間開始のブザーが鳴ってから数分、その後、容赦なく録音開始のブザーが鳴って、コンピュータに繋がれたマイクに答えを吹き込むのだ。このような高度な問題が6問くらい出される。

実は京大工学部の院試でもTOEFLを受ける必要があるのだが、自分の周りはSpeakingは満点30点のうち10点取れていたらかなりいい方だった。

さらに厄介なのは、何回もTOEFLを受けたくても受けられないことだ。当時、受験料が200ドル(さらに今は値上がりしたようだ)と高額なこともある。しかし、TOEFLは受験を一度したら、次回受験までに12日間のクールオフ期間を設けなければならなかった。(2019年7月末からクールオフ期間は3日間に短縮されたらしい。やりやがったな、TOEFL。)つまり、チャンスは限られていた。

University of Torontoの願書提出の締め切りは夏。夏までにTOEFLのスコアを達成し、残りの半年で卒論を完成させる。それが自分のプランだった。

幸いなことに、京大工学部の学生は院試を受けるのが当たり前だった。確か95%の学部生は大学院に進学していたはずだ。夏の院試受験までは学部生に研究に従事させることはなく、院試への準備に集中させるのがほとんどの研究室の対応であった。これは自分のプランにも合っている。

しかし、すべての研究室がこのようなスタンスというわけではなかった。中には、研究室に所属する学生は研究することこそが本職、そんな甘えは許さないという所謂”ブラック研究室”があったのだ。

さらにここが当時の京大で非常に残念極まりない部分であるのだが、研究室配属のプロセスは広い教室に学生を集め、志望を挙手、定員溢れが発生したらジャンケンだった。

研究室には人気の研究室もあり、もちろんそこに学生の志望が集中する。しかし、ジャンケンで負けたらそこで終わり。第2希望は一巡した後の残り物しか残っていない。”ブラック研究室”はジャンケンの敗者たちが行きつく墓場だ。

みんなが見守る中でジャンケンで優秀な学生が公開処刑される様は正直かわいそうでしかなかった。もし現在もこのような形で配属が決まっているなら、なんとかしてください、京都大学さん。

自分の興味のある分野、入っておけば将来役に立ちそうな研究室というのはあったが、自分の優先事項は海外大学院進学。準備時間がちゃんと取れるように”ブラック研究室”に入らないことを大前提とした。

つまり、狙うのは志望者がギリ定員内に収まりそうな人気の”普通”の研究室だ。そして、自分は海外留学をするという事情を理解してくれる研究室に入りたかった。そこをどう見極めるかは難しいが、実際に研究室見学の時に聞くしかなかった。

「すいません。大学院で留学を考えているんですけど、可能でしょうか?」
「あ、うちは、どこどこ大学とこういうプログラムが…」
「あ、すいません。海外大学院に入学したいという意味です。」
「え、今から?それは無理でしょww

こんな反応をしてくる教授と先輩学生に2回出会った。しかも前者に至っては他の学生がいる前で回答されたものだから、すごい恥ずかしかった。そして、悔しかった。

またである。
何も知りもしないで、下に見てきやがる。そして、自分は鼻で笑いながらウザいことを言ってくるヤツが一番腹が立つのだ。

「いつかこいつの顔面に合格通知書叩きつけてやる」と心の中で妄想しながら、その研究室には絶対入らないと誓った。

結局、留学の話をして「おー、それいいじゃん」と言ってくれた先輩がいた研究室に決めた。あとから分かったことだが、その喋った先輩がたまたま帰国子女で海外慣れしているというだけで、その研究室が何か特別というわけではなかった。ちなみに、その先輩は「質問があまり来なくなると思って…」という理由だけで、修論発表を英語でやった変人だった。なぜか誰もツッコまなかったが。

運命の研究室配属決定の日、その研究室の志望者はこっちに集まれと言われてむかうと、ちょうど定員ピッタリ。とても安心した。”墓場”には行かなくて済んだ。


激動の4年目を支えてくれたバイク

4回生が始まり研究室に配属された。それまで左京区の吉田キャンパスを中心に学生生活していたが、研究室は桂キャンパスという僻地にあった。大体ここで京大工学部生は桂に引っ越しをするが、自分は残り1年だけなので引っ越さなかった。

これを機にバイクを買った。
(お父さん、ありがとう。)

研究室に配属が決まって、まず行ったことは研究テーマ決めである。人数分テーマが用意されていたのだが、これもまたジャンケンだった。

自分の優先事項はとにかく大変じゃないテーマにしたいということだけだった。4回生はその時6名。外れのテーマは2つだ。なぜ、その2つが外れかと言うと、相方がいないからだ。

他の4つのテーマは修士の先輩とタッグを組んで取り組む研究で、すでにやることの道筋は決まっているし、サポートもしっかりある。残り2つは実験装置の構想すら何もなかった。もしそのテーマに決まったら、自分が主体的に考えて動く必要がある。

そして肝心なところで、ジャンケンに負けた。

最後から2番目の順位だった。もちろん、自分の狙っていた4つのテーマは取られてしまう。しかたなく、残った2つのうちの1つを選ぶ。

これは後日談だが、自分が選ばなかった方は元々とある修士の学生が担当していた。ところが、その学生が失踪し音信不通になって宙ぶらりんになったといういわくつきの研究テーマだった。そして、その修士の学生が突然北海道で発見されるという事件が起こり、なんと急に研究室に帰ってきたのである。結果的に自分は唯一の外れ研究テーマを選んでしまったことになった。

前述のとおり、学部生は院試までは特に研究に拘束されることなく自習できた。研究室に行くのも週1で良かった。自分がしたことはもちろんTOEFLの勉強だ。


春休みにとりあえず1回受けたら、60点強くらいだった。全然足りない。

1か月自習したら何点あがるんだ?
1か月後、再受験。75点だった。まだまだ足りない。

ここで、英語塾に入ることを決める。親に相談して援助してもらった。英語塾に行って事情を説明すると、すでに75点取っている時点ですごいことらしい。褒められた。でも、目標には足りてないし、自分には時間がない。正直、藁にも縋る気持ちだった。

この英語塾にはたまたまUniversity of Toronto出身のカナダ人がいた。色々相談できると思ったが、何を相談しても「う~ん、まぁそれでもいいけどねぇ~(多分何しても受からんよ)」みたいな態度でこれまた肩透かしを食らう。腹が立つ。

そこから1か月ごとに受験する。
やれることはやった。ブラインドタッチもTOEFLのWriting攻略のために、これを機に身に着けた。

89点
94点
95点

93点の合計得点とWritingは22点以上クリア!
ただ、どうしてもSpeakingは19点止まりだった。

願書締切、卒論研究。どうしても夏までに決着をつけねばならなかった。しかし、それまでTOEFLの受験のラストチャンスは後1回。

報連相は必要だと思い、家族に現状報告した。

「TOEFL合計得点はクリアしたが、Speakingだけ後3点足りん。もし、次上手く行かなかったら、来年入学できない。」
「おまえ、それやったら絶対交渉すれば行けるわ。」
「え!?」
「海外の大学なんて受け入れはゆるいから、Speakingだけ現地で語学学校でも行って何とかするって言えば絶対いける。俺の時もそうやった。しかも合計得点はクリアしてるわけやし。」

神は見放さなかった。これで全てはプラン通りだ。

父親の知人の現地のカナダ人を通して、University of Torontoに聞いてもらった。自分はこれでプレッシャーから解放されると思った。


しかし、University of Torontoからの回答はNGだった。

ただし、事情を説明して3月までTOEFLのスコア提出を待ってくれることになった。言ってみるもんだ。

それでも、これからは卒論研究と並行して英語を勉強することになる。正直、不安しかなかった。


この時代の写真はあまりない。そう、闇の時代である。

そもそも何も研究に対するアプローチが決まっていない自分の研究テーマ。担当の助教授に院試後にみんな研究を開始するのは分かるが、自分には事情がある。何とか早くに始められないか?と相談。

分かった分かったと言うが、まともに取り合ってくれなかった。

結局、研究が始まったのは他の皆と同じ時期だ。

メタンガスから触媒を通して水素を作り出すことを改質というのだが、自分のテーマは管路の温度分布を最適化して改質の効率化をできるかを実験するみたいなものだった。

そのためには流路内の触媒の部分だけの温度をコントロールする術が必要だった。自分の研究のスタートは、局所的な温度コントロールをする方法は何かを考える所からだった。本当にゼロからのスタートだ。

物を局所的に熱するというのは難しい。ガラス管を外から一か所バーナーであぶっても、熱はガラス管壁を伝って温度分布は一様に広がる。

脳みそをフル回転&ネットでカタカタして、考え付いたのは誘導加熱、ようするに最近のキッチンでおなじみのIHだ。これは電磁誘導の現象を利用して金属を非接触で加熱することが出来る手法である。誘導加熱を使えば、伝熱はあるが少なくとも、ガラス管を熱することなく、内部の触媒だけを加熱することが可能だ。

「誘導加熱はどうでしょう?」と助教授に相談。「う~ん、まだ時間はあるし、他の方法がないかも考えてみようよ。」という便りのない返事。1か月間くらい考えたが、これを超えるアイデアはなかった。もう、誘導加熱でゴリ押しした。加熱方法すら決まらないと何も始まらない。焦っていた。

そこからは装置の選定だ。装置を企業から購入するという経験が全くないので、とりあえずネットで見つけたそれっぽいメーカーにメールと電話を送りまくった。

ようやく見つけた自分の実験の条件に合っていそうな装置、見積もりを取ったら100万以上した。迷ったがここまで来てもう引き下がれない。買わせてくれと研究室に頼んだ。少し心配はされたが、案外あっさり通った。100万をポンっと学部4回生の一卒論に出すとは。京大さまさまである。

ただ、ピンチはあったことにはあった。自分が所属していた研究室の教授はなぜか東京に住んでいた。そして、週1ぐらいで桂の研究室に来て学生の研究の進捗確認をしていた。言ってしまえば、現場の事情を知らない副社長が無責任に突拍子もない提案をしだすような現象が起きていた。

自分の場合は、その誘導加熱装置のメーカーに頼んで1か月社内でインターンさせてもらえ、だとか本当にやめてくれよと言うものばかりだった。その度に、必死で言い訳を作っては面倒を避けるための工作に時間を取られた。

ここからはこの装置で実験をして、得られたデータを基に論文を書き上げる、だけのはずだった。

水素の改質にはある程度の高温環境が必要だ。事前の予備加熱と誘導加熱で何とかなると思ったが全くダメだった。どれだけやっても水素が生成されないのだ。

断熱材を追加。実験。失敗。
電熱線を追加。実験。失敗。
小型ヒーターを追加。実験。目の前で核融合みたいな爆発が発生し実験装置をぶっ壊した。この時はさすがにへこんだ。

もう季節は冬で、同じ研究室の学部生は水素生成なんて当たり前にできており、条件を変えながら色々な結果を集めていた。自分も様々な温度条件で水素量を計測していくはずが、スタート地点に立ってすらいなくて呆然としていた。

意地でも水素を作らないといけない。触媒を作り直し、粉々になった特注のガラス管を再発注し、ヒーターをとりつけ、実験実験実験。研究室に泊まった日もあった。桂キャンパスにはシャワールームがあったし、意外に何とかなった。

ある日、やっと水素が出来たのが確認できた。ガスクロマトグラフィーの装置から出てくる紙をみながら、水素の域の線を確認できた時は興奮したし「いや、本当に水素ってあるんだな」と思った。ずっと、実はこの機械壊れてるんじゃねぇだろうなと疑っていたからだ。

その時点でもう卒論研究は終盤戦。急いで温度を変えながら生成される水素量のデータを集めて、1か月ちょいの残りの期間で卒論をギリギリ書き上げた。

無事に提出し、1月に卒論発表。正直、研究の中身は自信ないし、せめて堂々と発表しようと思い、プレゼンはしっかり作りこんだ。自分で言うのもあれだが、発表はなかなかの評価だったと思う。教授にも褒められた。

こうして、卒論はなんとか乗り越えられた。しかし、肝心のTOEFLはまだ目標のスコアをクリアしていなかった。


研究室で実験、週2で英語塾に行って、週1でバイト、家に帰る。この日常生活を乗り切るのにバイクは役に立った。自転車とバスの移動じゃ話が違っていただろう。

そして、月1でTOEFL受験はずっと続けた。95点以上は安定して取れるが、Speakingは良くて20点止まりで、毎回全然スコアが上がらなかった。

通っていた英語塾はTOEFL対策コースと言いながら、毎週テキストブックの順に定型的な授業をやるだけでもうほとんど役に立たないレベルになっていた。というか、今思えば最初から大して役に立たなかった。ネットとかで見つけたフレームワークを実践する場としては活用できたかもしれないが。

どんどん、時間が経って、研究も忙しくなって、なりふり構えなくなっていった。その当時はネットでサンプル問題が大量にあったが、それも全部やりつくしてしまったため、Speakingの問題の実践練習をするためだけに、問題集を買いに買った。

iPhoneで自分の答えを録音して聞いた。彼女(今の奥さん)になにか問題を出してもらって英語で答えるってのもやった。その当時、自分は寝言でもSpeakingの練習をしていたらしい。

そんなことをしてるなかで、卒論関係を全て完了する。卒業の目途も立った。そこから締め切りの3月まで受けられるTOEFLはあと2回…。

2月のTOEFL受験。Speakingは初めて手応えがあった。というのは、TOEFLの回答にはひな形がある。そのひな形に沿って、回答を構築して喋ればいいのだが、それまではその用意していたひな形通りに最後まで完璧に言いきった試しがなかったのだ。

正直、英語はグダグダで発音も微妙だしミスったことを言ったこともあった。でも、初めて型どおり言いきれた。

これでどんだけ点数変わる?逆に、これで22点以上無理やったら、ここからさらに回答のクオリティを上げるのはもう無理ゲーだ。絶対に無理だ。無理無理無理。頼む、22点以上あってくれ。本当にそんな気持ちだった。

TOEFLをめちゃくちゃ受けていたので、いつぐらいに結果が届くというのを理解していた。受験1週間後の金曜か土曜の深夜だ。

いつもは朝見て届いていたら結果を確認していたが、その時はなぜか感覚で深夜に目が覚めて、心臓の動悸が爆速になりながらメールを開く。届いている。サイトで確認すると、合計100点、Writingは28点、Speakingは22点の文句なしのクリアだった。

これで全てから解放される。心の底から安堵した。

塾講師のバイトをしていたのだが、直後に生徒からインフルエンザをもらってしまい、のこりは闘病しながら引っ越し準備と提出書類集めをしていた。最後に受けたTOEFLは心が緩み切ってしまい、結果ボロボロの記念受験になった。


通っていた英語塾はというと、チラシを作った。「松浦悠人さん、TOEFL64点から100点に!!」

いや、64点は塾にお世話になる前のスコアやし、厳密には75点からだと思うんですけど…。商魂たくましいものだ。


京都大学でUniversity of Torontoに提出するための成績証明書などを用意する。

今は分からないが、京都大学の成績表の英語版をもらうと、取得した単位は書かれているが、成績は消されていた。

成績とGPAを出してくれと頼むと、それは対応できないと言われた。いや、今まで留学した人っていないのか…?

京都大学の成績基準は【不可】【可】【良】【優】【合格】のみ。【秀】はなかった。【A】【B】【C】【PASS】表記を個別に追加してもらい、GPAはもう誰に聞いても助けをもらえなかったので、自分基準で適当に計算した。【PASS】を【A】と同点にするか【B】と同点にするかで、必要とされるGPAに達するか達しないかの瀬戸際だったが、もちろん有利な方向で計算。

University of Torontoに提出すると拒否。マジか…と思ったら、名前が「YUUTO MATSUURA」になっており、パスポートの「YUTO MATSUURA」と異なるからだった。

京都大学に「YUTO MATSUURA」表記で再度くれと言うと届いたのは、また成績が消された英語表記の成績表。初めからやり直しだ。本当に京都大学の事務の対応にはイライラさせられた。1回1回やり取りに時間がかかり、結局全て提出できたのは締切ギリギリだった。

「こんな大変な経験は人生で2度とないだろう。すべてを乗り越えた。」と、思った…。

無事に卒業。母親がノリノリで写真を撮ってくれた。


University of Torontoは9月開始。卒業してからの半年、何をしようかはすでに決めていた。カナダの語学学校に行く。そして、調査の結果、University of Torontoが語学学校を開催していることを知っていた。

ここの一番上位のクラスに入ることが出来れば、カリキュラムの一環として実際にUniversity of Torontoの授業に参加することもできるらしい。学ぶことも日常英会話でなく、完全にアカデミック仕様で大学院生活の準備には申し分なかった。

卒業式も終わって全て落ち着いたらしっかり見てみようと思っていた。福井の実家に帰ってサイトを開くと驚愕した。9月までに行うクラスは3月~6月分しかなくて、授業開始までに3週間、応募締切までには1週間もなかった。

「あ、これはやべぇ…」と思った。こういう確認漏れというのは正直自分のあるあるだった。そして、急いでプランBを考えた。他の民間の語学学校。University of Torontoの短期プログラム。でも、すべてはプランAの劣化版でしかなかった。

怒られる覚悟を決めて父親に話した。カナダに行きたい語学学校があって、ただし行くとしたら2週間後には出発しないといけない。絶対怒られると思った。

「お前が行きたいなら行かせてやる」

その言葉だけで、現地のカナダ人の知り合いにメールで急いで依頼、泊まるところも確保、入学金も工面してくれた。このときの場面は今でも強烈に頭に残っている。感謝しかない。

どたばたとカナダに移動し、語学学校へ。残念ながら、一番上のクラスには入れず、2番目のクラスに入った。実用的なアカデミックな文章の書き方などを学び、後に役立つことも確実に学べた。

しかし、正直、今振り返ればこの語学学校の3か月はただの遊びだった。授業はハイレベルだが、クラスは午後しかない。余暇時間はたっぷりあった。関西大学とプログラムで提携しているかなんかで若い日本人大学生がめちゃくちゃいたし、毎日なにかしら遊んでいた。

現地の友人も出来た。地下鉄の使い方、スーパーにあるもの、土地勘、そういったものが得られたのはとても助かった。3か月カナダのトロントで過ごした後、福井に帰る。

約2か月福井で本当に何もやることが無いニート生活を堪能した。日本各地で社会人になった同級生に会いに行ったり、台湾に旅行したりもしたがダラダラしていた。そして、8月に本格的なカナダ留学に向けて日本を旅立つ。

出発前に祖父と祖母に挨拶。パーキンソン病とアルツハイマーが同時に発症してしまった祖父とはまともな会話はできなかった。
でも、最後の別れ際に「悠人、ノーベル賞を取れ」と言われた。なんか頑張れる気がした。

語学学校でエンジョイしていた頃

お盆の後にカナダに到着した自分には学期が始まるまで2週間しかなかった。この2週間の間には、家を決めて、学費の振り込みをするというミッションがあった。とりあえず語学学校で出来た友人の家に転がり込んで、そこを拠点に家を探すことにした。

ちなみにこのプランで行こうと日本で余裕をぶっこいていたら、旅立つ前夜に父親に「友人の家に泊まるだなんて、住所も親に知らせずにお前はどこまで無責任なのだ」とブチぎれられた。しかも、その数日前には親から借りた車をぶつけてしまうという事件もあり、父親とは喧嘩別れみたいな状況になった。なんとかすると言った手前、なんとかするしかない。

生活資金と学費のための軍資金を日本から送金してもらう必要があったため、まず銀行口座を作った。そこまでは良かった。
その後のシステムはさっぱり分からなかった。なんとか理解しようとしていたら、日本から父親がスカイプしてきて、「お前どうなってるんだ?ちゃんとやることして連絡をしろ」とブチぎれられた。

弁明ではないが、自分は父親に激怒されるというのはそこまで回数が無いので、留学関連で怒られたこの2回というのは強く記憶に残っている。

多分これだろうという口座番号を連絡した。どうやら上手く行ったらしく、口座にお金が増えてた(適当)。次は学費振り込みだが、これに関しては本当にさっぱりわからなかった。ネットで探しても何も書いていない。困っていたのは学費を払いたいが一体どこの口座番号に振り込めばいいかだ。

これは自分が日本人という固定観念にとらわれていたのだと後で分かった。銀行のアカウントから振込先を検索する。そうすると「トロント大学」と出てくる。それを選ぶだけだった。日本人からしたら、名前だけで振込先指定するなんて…!という感覚だろう。「良く分からんが、振り込んでまえ」の精神で振り込んで無事に入学できていたので、上手く行ったのだと思う(適当)。

そして、家探しも日本人の感覚とまるで違う。完全に個人対個人のやり取りだ。ようするにマッチングアプリみたいなサイトで、家主が住人を募集。それに対し、電話でアポを取り交渉する。もし、応募者がたくさんいたら家主が面接みたいなことをすることもあった。個室あり、キッチン共用、トイレ共用、条件は様々だ。

当たり前だが、いいところは応募者も多い。自分はなかなか決まらなかった。そして、学期が始まる直前ということもあり、めぼしいところはすでに取られていた。

1週間を切っていよいよ決めないといけない中、大学の近くのコンドミニアムの物件が出てきた。コンドミニアムは日本で言う高級マンションのような感じの建物である。その物件には住人用の共用のジムやビリヤード、屋上のBBQセットまであった。普通は1ユニットがファミリー向けだが、複数の学生がシェアするケースも少なくなかった。

なんとその物件は、自分と同い年の学生が家主だった。彼女は工学部の学生で、これから半年間彼氏とヨーロッパ旅行で不在にするらしい。あとで分かったが、金持ちの中国人の親から送り込まれたこんな感じの若者がトロントにはうじゃうじゃしていた。

すぐにアポを取って見に行くと、リビングの奥で家主が友人と何か木で工作をしていた。部屋を追加で製作しているということだった。その製作中の部屋こそが今回貸し出される部屋だったのだ。

正直、面喰ったが、ロケーションがかなり良かったのと建物自体のインフラも申し分なかった。そのユニットは製作中の部屋と、マスターベッドルーム(いい部屋)と別に2部屋の計4部屋あった。家賃を聞くと、その2部屋と同じ家賃とのこと。

「あの部屋と同じクオリティの部屋になるんだよね?」
「ドアにカギを付けてくれるよね?」

その確認をして、小切手を切って契約をした。別れ際に、ベッドはクイーンサイズでいい?と聞かれたので、適当にOKと返しといた。これで全てはなんとかなった、と思った。


引っ越し当日、目の前にあったのは、3歳児の積み木みたいな工作物だった。

こんなんあかんよ
  • 天井の隙間でキッチンからのにおい、光が全て入る

  • ドアが隙間だらけで軽くずらせば施錠関係なく進入可能

  • 中がクイーンサイズのベッドでほぼ埋まっている

完全に騙されたと思った。これで他の部屋と同じ家賃なんてありえない。カナダ人の適当さ。洗礼を受けた。

でも、生きてはいける。腹は立つがやっていこう。

このルームシェアは本当にトラブルの連続だったのだが、長くなるのでここで語るのはやめておこう。

ただ、まったく何も分からない環境の中、己の力だけでミッションを完遂した自分がなんとなく誇らしかった。


部屋の中はこんな感じ。本当にベッドだけが占める。


いよいよ、大学院の始まりだ。

日本の大学は入るのは難しいが、出るのは楽。
海外の大学は入るのは楽だが、出るのが難しい。

まさしく、この世界だった。

自分は工学修士だったが、卒業のためには10単位必要だ。週1の2時間の授業1つが1単位で、修士論文は2学期継続だが3単位に相当する。

まず、1コースの最低合格のスコアはBだった。B-だと不可である。(学士はB-が最低合格)

そして、2単位落とせば強制退学だ。

その代わりに、中間試験の結果を受けて、ペナルティなしで履修キャンセルが可能だ。なので、その時期になると人がぐっと減る。グループプロジェクトだといきなり人が抜けるので大変だった。

1学期で履修できるコースは5つまで。
1日2時間の授業の拘束時間。研究もない。そんなに大変じゃないかと思うかもしれない。

自分は迷わず前期に5コースを履修登録した。

それを現地のカナダ人の学生に話す度に「おまえはクレイジーか?」と皆に驚かれた。

結果、自分はクレイジーだった。

言ってしまえば、1コースで1つ卒論を書くようなイメージだ。物理系、数学系のコースでも、最終評価はテスト、プレゼン、ペーパー(論文)で行われる。そして、アサインメントと呼ばれる課題が毎週出され、信じられないくらいそれがきつかった。

授業が始まって1週間で父親に相談した。

現地の人は、1学期に2,3個しかコースは履修しない。卒業まで2年かけていいスコアを狙うのが普通だ。そして退学のリスクがあるからこそ、無理なスケジュールは組まない。1年で卒業を目指すのは正直危険かもしれない。
【良い成績】と【1年で卒業】天秤にかけてどちらが大事か?

答えはシンプルで、とにかく早く卒業しろだった。

ちなみに、父親はダブルスクールでMBAも同時に取れと言っていた。ただし、そもそも経営学修士を取得する条件が揃っておらず断念した。良かった。


1年で卒業するためには選ぶコースが肝心と考えた。戦略的な履修登録こそ勝利のカギだと。しかし、正直ギャンブルだった。履修登録の期間自体は結構長いが、初週で受けるか実質決めないといけない。

1週目に見てみた授業が微妙だったので、2週目から同じ時間で被っていた授業に初めて参加したら、もう課題が出されていることなんてざらだ。課題をやってないって伝えたら、クラス中からブーイングを食らったこともある。教授のおちゃめなノリだったみたいだが、外人30人が一斉に自分の顔を見てブーイングされるのは本当に応えた…。

スケジュール帳に履修する授業の候補を8つくらい入れておいて、初回に感触を探る。

月曜からスタートして、
1つ目、いや、これはきつすぎる。バツとメモ。
2つ目、いやこれもきついわ、バツ…。
3つ目、残りに期待や…。バツ……。

1週間後、最初に即断でこれは無理と決めたコースが履修の一番の候補に躍り出るときもあった。そんな世界だ。


ほぼ出たとこ勝負の授業、自分はなんとか置いてかれないように、2時間ずっと一言一句聞き逃さないように意識を全集中させていた。少しでも聞き逃したら終わる。そんな緊張感と隣り合わせの授業だった。

京大時代は数えられないくらい授業中に居眠りをしていたが、University of Toronto時代は授業中一睡もすることはなかった。リスニングは本当に生きるために鍛えられた。



日本人大学生は遊んでばかりでどんどん堕落していくイメージだが、カナダ人の大学生と戦えるのか。

自分は数学、物理系は大学の教育のおかげで何とかついていくことができた。なんなら、クラスの他の学生に課題を教えることもあった。ただし、苦手なことは2つ、プログラミングとディスカッションだ。

コースの課題は平気でプログラミングスキルを要求してくる。と言っても、本格的なプログラミング言語ではなく、VBAやMatlabなのだが、自分は全く経験がなかった。どのコースでもプログラムファイルの提出が当たり前のように要求されて自分は本当にあたふたした。でも何とかした…。

ディスカッション系の授業はもう地獄だった。全然喋れないし、勇気を出して発言したら、「そんなこと分かってるけど…?笑」みたいな反応されて、変な汗がブワっと全身から出た。出過ぎてメガネが曇ることもあった。でも何とかした…。

どんなコースだろうが、辞めたくても辞められなかった。1個でも諦めたら、1年の卒業は叶わなくなる。2個落として退学にでもなったらシャレにならない。ここらへんはなんか意地だけだった。

そして、来る学期末。

Final Projet。テスト、論文、プレゼン。山盛りのタスクリストだった。本当に1分1秒も無駄に出来ないレベルで忙しかった。

集中できる環境に置くために、授業以外の時間は図書館でひたすら勉強と課題に取り組んだ。実際、トロントの1年は家より図書館で過ごしたと思う。カナダは日が長いので、西日が差して、あ、ご飯食べなきゃと時計見たら22時前だったこともある。本当にずっと一心不乱に図書館でカタカタしていた。毎日、「嘘だろ…もうこんな時間かよ…」となったのを覚えている。

ジム、勉強、勉強、飯、勉強、勉強、勉強、飯、ジム

間にこまめに十数分ジムを挟むことで、心を正常に保った。カナダの量のあるご飯も相まって、脂肪もついたが自分でも信じられないくらいムキムキになった。

こんなに頑張っても、分からないことはある。京大時代からそうだが、友人がいっぱいいたら、お互いに協力出来て学業はさぞ楽だったと思う。しかし、コミュ障であまり友人は出来なかった。正直、数人の仲のいい友人さえいれば満足するタイプで友人の輪を広げたいと思わなかった。なので、自分で何とかする。何とかするしかなかった。

最終課題で全くやること自体が分からなかったことがある。もう、なりふり構ってられなくて、そのコースの教授に面会のアポを取って、「分からないんで助けてください。」と懇願しに行った。教授からしてみれば、甘えた学生だったと思う。

でも、その教授は懇切丁寧に、読むべき本、参考にすべき論文を教えてくれた。それでも結局分からなくなって、その後、2回も追加で押しかけて、色々教えてもらった。当たり前だが、その授業は合格した。本当に泥臭かったと思う。でも、やらなきゃいけなかった。

そんなこんなで、前期は無事に5コース全て合格を勝ち取った。

後期も5コースをフルで履修登録。もちろん同じくらい大変だった。でも、前期で多くのことを実地で学んだ自分はスマートに、かつ、泥臭くこなした。


2015年6月
卒業を勝ち取った。


どや顔


卒業した後、カナダでお世話になった人がこう言っていた。

悠人の父親が1年で修士を取らせるって言っていた時は、はっきり無理だって言ったよ。カナダ人でも難しいし、言語の壁がある悠人にはもっと無理だ。息子に期待しすぎだよって。でも、Mission Impossibleをやり遂げたね。これは奇跡だよ。松浦機械の将来はハードワーカーの手に委ねられるんだなって思った。

この人は自分がトロントにいる間、一度たりとも無責任に「がんばれ」と言ったり、「諦めて2年で卒業に変えたら?」と言ったりすることはなかった。定期的にご飯に連れ出してくれては「大学はどうだ?」「何か困ったことはないか?」「よく頑張ってるね」「きっとうまくいくよ」って言うだけだ。

それだけでも、大きな心の支えになった。きつくてもやり遂げられたのはこの人のおかげだ。この人とは今でも仕事上で付き合いがあるが、今でも甥っ子を見守るような眼で接してくれる。少し恥ずかしい。


「こいつには難しい。無理だ。」

そう心の中で思いながら、相手にかける言葉ってのは人それぞれ。自分もできるなら、相手の味方に立ってあげられるような人になりたいものだ。

ただ、逆の立場でものを見れば世の中はそんなに甘くない。真正面から否定されたって、くじけない。見返してやるという気持ち、それも大事だ。自分はそんな心構えでいたい。

終わりに

急に思いだしたように、学生生活を振り返ったがこれにはきっかけがある。

この7月に社長に呼ばれた。

「博士号を取ったらどうだ?」

その場で取るって決めた。
なんとなく、自分にしかできないことってこれかもしれないと思ったからだ。

この冬、京都大学の博士課程に出願する。
上手く行けば古巣に戻ることになりそうだ。

出願書類を集めるのは大変だった。学生時代のMacbookから何か掘り起こそうにも何も見つからず、奇跡的に7年前に使っていたユーザーIDとパスワードを記憶と昔の写真から手繰り寄せ学生ポータルにログインできた。

自分は修士論文を書いていないが、当時のコースで提出したペーパーで代用できた。やっぱり、それなりのことはしてたんだな…と思った。大学院時代の教授からの推薦状を取るのは苦労したが、3人コンタクトして唯一1人から返信があった。その教授は、当時3回もオフィスに押しかけて助けを懇願したあの教授だった。元々、優しい性格なんだろう。

こんなことをしていたら、記憶と思い出がよみがえってなんだか書きたくなったのである。

不思議なもので、博士課程を決心した時は割と時間に余裕があると見込んでいたのに、その後、いろんな仕事が自分に舞い込んできてしまった。京都大学でお世話になる予定の教授からは、人生で一番大変な3年になる。覚悟して来てください、と言われている。


何とかしてやる。



この記事が参加している募集

学問への愛を語ろう

私は私のここがすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?