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コンプレックスを抱えて生きる女性の心を、温かなひと皿が解きほぐす。『初恋食堂』古矢永塔子 著

漫画や小説において外見にコンプレックスをもつ主人公は、比較的見かけることの多い設定ではないだろうか。そして、ストーリーもまったく同じではないが、定番の流れが存在するように感じる。読み始める前、古矢永塔子さんの『初恋食堂』(小学館文庫)も、そのような流れで進むのではないかと予想していた。しかし、その予想は物語の序盤に大きく覆される。予想外の展開に、思わず「そっちなの⁈」と声が出てしまった。

本書は、第1回「日本おいしい小説大賞」受賞作である、『七度笑えば、恋の味』を改題、文庫化したものだ。容貌に強烈なコンプレックスを抱く日向桐子(ひゅうが きりこ)が、勤め先の「みぎわ荘」に暮らす匙田譲治(さじたじょうじ)や「居酒屋やぶへび」の人々と関わるにつれ、生きづらさから解放されてゆく様子を描いている。

単身高齢者向けマンション「みぎわ荘」で調理補助をしている桐子は、普段から素顔を隠し、ほかの従業員とも一定の距離を保ちながら働いていた。コンプレックスを理由に職を転々としていた桐子にとって、自身の秘密に踏み込んでくる人がいない今の職場は、居心地の良い場所になりつつあった。しかし、アルバイトの墨田が加わったことにより穏やかな日々は揺らぎはじめ、やがて桐子の心は限界をむかえる。

そんな桐子の心を救ったのが、「居酒屋やぶへび」で匙田が作ってくれた「鮭と酒粕のミルクスープ」だ。辛いことや悲しいことがあった時、誰かの作ったごはんはお腹を満たすだけでなく、心まで温めてくれる。肩の力が抜け、頑なだった心や思考もほどいてくれるだろう。桐子も、匙田の料理を口にしてそのような感覚を抱いた。鮭と酒粕のミルクスープ以外にも、本書にはさまざまな料理が登場する。桐子が前に進もうとするなかで、躓いたり誰かと衝突したりと壁に直面する度に、温かな料理が背中を押してくれるのだ。

そして、誰かの作った料理に背中を押されるのは桐子だけではない。本書に登場する人々も承認欲求や親子の問題など、さまざまな悩みや過去を抱えて生きている。彼らが悩みながらも問題と向き合おうとする時、そこには必ず誰かが作った温かいひと皿がある。そのひと皿が、気持ちを奮い立たせてくれたり本音を引き出したりと、そっと手助けしてくれるのだ。多様な料理だけでなく、自身の問題と向き合い変わろうとする彼らにも注目しながら読み進めてほしい。


私たちは、命をつなぐために食事をする。しかし、時に食事は、生命を維持する以外にも大きな効果をもたらす。あの日、匙田が作ったミルクスープが、冷えきった桐子の心にそっと寄り添いじんわりと温めてくれたように。『初恋食堂』は、読み進めていくにつれ空腹は増すが、変わってゆく桐子たちの姿に心が満たされる一冊だ。この充足感を、あなたにも味わってもらいたい。




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