青年時のうれひ 王陽明とニーチェ

私は大学受験に失敗して浪人したころから、人生の意味を考へて文学やら哲学に凝りだした。
ところが、これがために却って深く悩まれて、懊悩煩悶して世も眠れず、といった時期もあったものである。

今にして思えば懐かしい。そんな当時の私が何を学び、何を考えたかについて、ここで述べてみよう。幸いにして当時の日記はあり、これを読んで細部まで思い出すことができたのである。

まず、特にこれといった思想、哲学に取り憑かれる以前、私は自然形成されたある種特異な考え方を持っていたように思われる。
それはあらゆるものを二項対立にし、一方を賛美してもう一方を強く嫌悪するという傾向だった。
その中の大きなもののひとつが日本と西洋だったといえる。 

当時の自宅と、両親の実家との間にある、建築やら生活様式の差をみて、あらゆる歴史を学ぶ以前から、私は日本と西洋の文化的対立を強く意識していた。

例えば、自宅は西洋建築で、普段から椅子に座り、またドアを使う。一方で両親の実家など古い日本家屋では座布団に座り、襖や障子はあれどもドアはない。
…特にドアと襖の違いは何故か、幼心に強く残っている。幼い私の中で日本の代表は襖であり、西洋の代表はドアだったにちがいない。

そう、それは明らかな違いだった。それは私の心に常に残った観念だった。
やがて私は小学校に入り、簡単に歴史を学んで、日本がむかし戦争に敗れたことを知った。

そのため、日本の「文化」は戦争に負けたがために、アメリカの「文化」から弾圧されていると考えるようになった。

そして逆に、もし戦争に勝っていれば、アメリカ人に日本文化を強いていたのだろう、アメリカ人は座布団に座っただろう、と。
そして敗退し、弾圧されつつある日本文化は、そのうち消滅するという緊張感、危機感を覚えずにはいられなかった。

当時から家や生活様式をはじめとして、幼心に日本文化を感覚的に好んでいた私は、それを弾圧する西洋を、特にアメリカを激しく憎んだ。三つ子の魂百までというが、実際その根元的感情はなかなか消えなかったものだ。

精神教育としては、親から読むべく云われ儒学的な徳目を重んじていた。学んだのは四書五経の素読が中心だったが、仁やら孝というのは私のなかで絶対の存在になっていた。

つまりこの時、私は西洋嫌いの東洋人そのものだったのだ。故に恋愛などもそうとう奥手で、薩摩武士のようであった。恋愛はそれ自体が罪自体であるとさえ、幼い私は考えていた。

青年期
やがて大学受験を迎える程に大きくなるが、その時まで私は運動ばかりやっていて、さほど何かについて考える癖がなかった。
故に幼少期由来の性質の延長から、私は右翼的な軍国少年になっていた。が、思想やらを詳しく調べ、深く追及するほどでもなかったのである。
しかし浪人し、その時間を利用して、文学を読むようになった。その時、私の心を捉えたのは西洋文学、わけてもスタンダールの「赤と黒」だった。

私は主人公のジュリアンに激しく共感し、西洋を考え直した。
ルソーの告白などを読み、また西洋文学の影響で貴族趣味に走った。私のなかの二項対立はここにいたり、西洋に揺れたのである。
貴族趣味の結果、私は士官になろうと思い、防衛大に入ったのだった。

そこではひどく忙しく厳しい生活を送ったが、どうにか時間をみつけては、図書館で読書に明け暮れたものだった。
そこである時から幼くして学んだ東洋思想を懐かしく思い、学びなおしているうち、陽明学に接近した。これは実に面白く、熱中した。私はたちまち陽明学の徒を自称して憚らなかったほどである。

それから少しして、西洋哲学、特にショーペンハウアーとニーチェにもどはまりした。中でもニーチェは刺激的で、道徳の超越をとく彼の思想は、幼いころからの付き合いである儒学的道徳からの飛躍を思わせ、私に陶酔的な歓喜を与えた。 
ここで日本と西洋の対立は、儒学とニーチェの対立へと至ったのだった。
これまでの自分は、まさに駱駝の時期であり、今の自分こそが獅子の時代。これから超人へと向かうと考え、喜びに震えたものだった。

実際、ただ昔の如く朱子学的に、儒学を学んでいたら、私はニーチェ的な超人思想の虜のままであったろう。

しかし陽明学派の儒学はそれ自体にもニーチェの道徳超越的な傾向を含んでいたから、私は次第に陽明学とニーチェの合一を考えずにはいられないようになっていた。対立の中に着地点をみつけるという発想、弁証法的帰結を、それまでの哲学的思索により得ていたのである。

しかしながら、この時期の私は精神的に特に不安定だった。
何をしても自己嫌悪した。善人らしい振る舞いをすれば私のなかのニーチェは偽善者めと私を責め立て、悪人らしく不道徳に生きれば良知が私を後悔させる。

そのために私は神経衰弱になりかけたほどだった。
そうした苦しみを経て、私はやがて一つの傾向に落ち着いた。

それは陽明学を根幹として、心を規範として生きるだけではなく、ニーチェらしく既存の道徳にとらわれぬ傾向をより強めたものだった。
李卓吾がそうであったように、道徳超越は純粋な陽明学の延長にも存在する考え方であり、そこに私は西洋のニーチェの力を借りて到達したといえるのである。

さらに、気付けば生涯に渡って私の内面にあった二元論的思考から、解放されていた。
それは唯心的一元論といわれる陽明学が根本に存在したためであり、そこには老荘的なものも多分に影響を与えていた。
まさに思想のるつぼであったが、私のなかで実に矛盾なく合成されたのである。

以降、今日にいたるまで、私はこの思想を発展、変化させながら生きてきたといってよい。

かかる人生を透徹する価値観を青年期に有することができたのは、幸いだったと思う。
 若者に思想哲学を学ぶことをすすめるのは、こうした経験からである。私のような思想でなくともよい。

 何か生涯に渡って頼り得る信念とも呼べる思想、これを持つことは非常なたすけとなる。


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