孫の花(続き)

   日記より27-12「孫の花」(続き)          H夕闇
 ここ一月程ガザ地区の病院から届くニュース映像は、残酷だ。発電所の爆撃で保育器が止まり、未熟児たちが力なく手足を動かす姿など、正視に堪(た)えない。あの子たちの親は強い敵意を募らせるに違い無い。
 親が死んで子が生き残った場合いも、悲惨だろう。物心が付いて直ぐ、(他の子と違って)自(みずか)らに親の無い事実を、身を以(も)って痛感するだろう。その辛さの分だけ、親を殺したイスラエル軍を憎むだろう。幼い心の奥底に敵愾心(てきがいしん)が宿り、生涯それは消えまい。憎悪と怨念(おんねん)が暗い未熟な人格を形成するとは、何と切ないことではないか。就職口も無い若者は、イスラム組織ハマスへ。パレスチナのアラブ人とユダヤ人との間に糾(あざな)われた憎しみの連鎖は、こうして何代も続いて行くのだろうか。
 確か十年程前の出来事、イスラム過激派のテロで子を失った親の報道を思い出す。パリ市の新聞がマホメットを揶揄(やゆ)する戯画を載せ、それに対する報復テロだった。小さな亡(な)き骸(がら)を抱いた男が、自分はイスラム教徒を断じて憎むまい、復讐の連鎖は自分で終わりにしよう、とインタビューの記者に語ったのである。この父が偉い哲人のように見えたことを、僕は忘れない。狂信的な宗教指導者より遥かに偉大な人物に。
 無邪気な幼心(おさなごころ)を決して仕返しの誓いで汚しては成(な)らない。無垢(むく)に産まれ付いた子供を黒い復讐心から守ることは地上の乙名(おとな)全体の義務である、と僕は思う。
 もう一つパレスチナの実話が心に残る。嘗(かつ)てイスラエル兵に狙撃されて脳死に陥(おちい)ったアラブの少年が居(い)た。二度と蘇生できないと知って、父親は心臓の提供に同意した。提供先も知っていた。重い心臓病を患(わずら)ったユダヤの少女だった。国境を越えた移植手術が成功、健康を得た少女は長じて医師となった。

 今年は永く厳しい暑さに続いて、秋が短く、もう凩(こがらし)が吹く。その季節の変わり目に、僕は風を引いた。咳(せ)きが半月も続き、果ては熱を発した。発熱外来へ電話すると、翌日に受診するよう指示された。
 熱に浮かされる中、様々な想念が脳裏を横切(よぎ)った。もしもコロナなら、五類に移行される前に罹(かか)りたかった、ホテル療養とやらも体験してみたかった、などと悠長(ゆうちょう)な妄想も去来した。一方では、半透明のビニール幕が下がる陰圧室で、点滴のチューブや酸素マスクを付けられ、家族に今生(こんじょう)の別れを告げることも無く死亡する隔離の光景も、追い追いに浮かんだ。
 そして、翌日コロナの検査を受けに行く前に(隔離される前に)この世で果たすべき大事をし残している気分に迫られた。そこで、伜(せがれ)に頼み、そのスマホと僕の妻のスマホとの間で、暫(しば)らく会えない×番目の孫と語り合えた。死ぬ前に、と云(い)った切羽(せっぱ)の詰(つ)まった思いで、是非とも僕の口から話したい事柄が有った。
 人は年齢を重ねるに従って、罪の思いが募るものだろうか。この子に対して僕は罪が有る。それを自(みずか)ら詫(わ)びておきたかった。それをせぬ侭(まま)では死に切れない気がした。本当は孫が充分に成長してから(物事の道理を弁(わきま)えて人の心を理解できる年頃になってから)話したかったのだが、最早(もはや)その猶予が無いかも知(し)れなかった。まさか、とは思い乍(なが)らも、だが万が一という事も有ると感じた。
 生と死、幸福論、運命とは何か、、、と云った話題は、哲学的テーゼの端緒であり、未だ幼い子と話すには重い事柄だった。申し訳が無い気もしたが、事情が許さない。祖父と孫ではなく、乙名(おとな)と子供でもなく、一対一の人間同士として、有意義な対話が出来た。僕は咳き込みつつ、孫は涙ながらに。
 その電話で、僕は裏のコスモスの話しもした。もう二十年も前に土手を耕(たがや)して以来ズッと自生している花畑のことである。秋に種が土に零(こぼ)れて翌春に芽を出す者は良い。だが、畑から食(は)み出(だ)して道路側に落ちた一部の種は、硬いアスファルト上で朽(く)ちるしか無い。その境目(縁石と舗装道路との間の細い隙間(すきま))に転がり込んだ種は、その狭い割れ目からも懸命に芽を出す。冬枯れてから抜いて見ると、縁石とアスファルトとの僅(わず)かな間隙(かんげき)(もう殆(ほとん)ど土さえ無い空間)で根は精一杯(せいいっぱい)に伸びて、硬く平たい板のように拡がっている。己(おのれ)の不遇を託(かこ)つでもなく、恵まれた他へ妬(ねた)み言(ごと)を零(こぼ)すでもなく、力の限り黙々と根を張って、命を全(まっと)うしようと努めた証(あか)しである。その生き様に僕は頭が下がる思いがする。不平不満の多い僕ら人間は、名も無い野の花に見習わねば成(な)らぬ気がする、と(コスモスに託(たく)して)老人の人生観を小学生に語った。力強く生きて欲(ほ)しい、との願いを込めたことは言うまでも無い。半(なか)ば遺言の積もりであった。
 幸い、翌日の検査結果では、コロナもインフルも陰性。タクシーで無事に帰れた。入院中に読む筈(はず)だった(もしかしたら、この世で最後に読むのかも知(し)れなかった)一抱えの本も、リュックの侭(まま)で徒(いたず)らに帰館した。父親からの知らせで、「なあんだ。」と孫は気が抜けたかも知れない。

 ×番目の孫は理科の実験で朝顔(あさがお)を育て、その種を沢山(たくさん)ジージに呉(く)れた。翌春それを里帰り中の娘とプランター三つに植え、網(あみ)状の支え木を二階から垂らして育てた。蔓(つる)が幾重(いくえ)にも絡(から)んでズンズン伸び、二階の窓まで届いた。
 その種が更に零れたらしく、今年もウッド・デッキの隙間(すきま)や放置したプランターから勝手に幾(いく)つも芽が出た。初め何の花か分からぬ侭(まま)に放って置くと、ハート形の小さな葉が生えて、朝顔と知れた。
 蔓が伸びて、あちこち這(は)い回り、絡まり合った。気の毒なので、木の枝を壁に立て掛けてやったら、それを伝って伸び、一メートル程の木だけでは足りなくなった。それで寝室のカーテン・レールから紐(ひも)を垂らしてやったら、到頭(とうとう)その蔓が二階の僕の寝室まで登って来た。
 今年は記録的な猛暑。残暑も続き、秋になっても朝顔の蔓は育ち続けて、僕のコロナ騒動に至った。そして、寝室で咳きに噎(む)せ乍(なが)ら寝込んでいる僕の様子を窓から覗(のぞ)いて見舞い、(まるで励ますのように)赤い花が二つ咲いた。今月になっても、未だ時々花を携(たずさ)えて訪れるのである。

 その二人の孫が近頃チッとも顔を見せず、ジージやバーバよりゲーム相手の方が楽しいらしい。代わりに、×番目の孫が週末毎(ごと)に(むすこに連れられて)訪れるようになった。
 この孫とは先日チューリップを植えた。六畳間の窓下の花壇に二列、赤とピンクの球根を交互に植えた。その花が咲くのは、この子が学校に上がる頃だろう。
 只ランドセルはお下がりとなりそうで、それが気懸かりだった様子。新しいのを買って呉(く)れるか、とジージに聞いた。念(ねん)の為(ため)ママへ確かめさせた所、ママに買って貰(もら)うことになったそうだ。
(日記より)

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