書斎明け

     日記より26-9「書斎明け」         H夕闇
                五月三十一日(火曜日)雨
 書斎の日捲(ひめく)りカレンダーが、今年は永らく三月十六日(水曜日)の侭(まま)で止まっていた。
 その日付け変更前(我が家はスッカリ寝静まった深夜)福島県沖で最大震度六強の地震が発生し、僕の書斎は二度(ふたたび)(十一年前と同様に)崩壊した。去年の二月半(なか)ばから約一箇月置きに三回連続した地震では(震度は同程度でも、)本棚の被害が余り無かったのに。
 今回も棚から多くの本や書類が崩れ落ちたが、震災の時に落ちたのは殆(ほとん)ど全てだった。それらを隣室へ運び出し乍(なが)ら、ジャンル毎(ごと)、筆者別、(同じ人の著作なら)執筆年代順に並べ替え、全て整った所(ところ)で書斎の本棚へ戻した。作業に要した時間は、記憶に無い。地震発生の時点から数えれば、確か年単位だった。仕事その物に時を要した、と云(い)うよりも、仕事に取り掛(か)かる丈(だけ)の気力が湧(わ)くまで徒(いたず)らに暇(ひま)が要(い)った。
 それに比べれば、この度(たび)の復旧は高々(たかだか)二箇月半。落下した品数も、ズッと少ない。上の方に有った物が主で、本より書類が多かった。だから、蔵書分類の手間(てま)が大幅に省(はぶ)けた訳である。
 とは言え、いざ腰を上げるまでには、かなり充電(エネルギー・チャージ)に時間が掛(か)かった。あれは帰省した末の娘が去り、その後で長女が母親の誕生祝いに来て、女三人から書斎の乱雑ぶりを皮肉られ、それから漸(ようや)く重い腰が上がったのだから、実際に着手してからは十日位(くらい)の工程だったことになる。
 僕は凝(こ)り性(しょう)で、手を着け始めるとトコトンやらねば済まない。その自(みずか)らの性分を永年の付き合いで知っているものだから、手間も暇(ひま)も掛かることを予期して、予(あらかじ)め気が重くなり、従って始動するまで腰も重くなるのである。省(かえり)みれば、これは僕の生涯に屡々(しばしば)起こった現象である。

 さて、本棚から落ちた物の多くが(本よりも)書類だったが、それは又それなりに困難が付(つ)き纏(まと)った。現役以来、僕は書類に目を通すのが苦手(にがて)で、お役所からの通達文など特に嫌いだった。トラブルの際に言い逃れ出来るよう、細かい但し書きや小文字の注釈などが多い。然(しか)も官僚用語が散りばめられ、矢鱈(やたら)に文と文を繋(つな)ぐから、文脈が取れない。そんな悪文など初めから読まず、皆その侭で取って置くから、分量がドンドン増えて、始末(しまつ)に困るのである。それで一番上の(最も遠い)棚へ追い遣(や)って放置する結果となる。
 それら厄介者(やっかいもの)は、もう端(はな)から要らない物も多く、裁可の上で屑(くず)籠(かご)へ直行させれば良かった所(ところ)を、例の性分と重い腰で死蔵して来た。床に散乱した書類の山を眼前にして、僕は二月も立(た)ち竦(すく)んでいた次第(しだい)である。
 二箇月間の充電の後、僕は雄々しく整理に立ち上がった。だが、立ち上がって見ると、もう一つ大きな山が(峠(とうげ)の向こうに)控(ひか)えていた。書類の多くは郵送されて来た物で、従って宛(あ)て先(さき)の住所や氏名など(云(い)わゆる個人情報)が記されている。更には電話番号や家族の情報まで満載、これはポイと屑籠へ直行させる訳には行かぬ様子だ。その部分を一つ一つ挟(はさ)みで切り取り、再構築が不可能なまでに裁断する作業が更に必要と思われた。(この凝り性を見よ。)ああ、職場にシュレッダーが完備されていた頃は良かった。
 同じ様式の報告書が定期的に届いた場合い、それら機械的な印刷物は印字の位置に殆どズレが無いから、重ねて一遍(いっぺん)に切っても許容範囲だった。その代わり、紙が厚くなる分、挟みで親指の付け根が痛くなった。
 この種の単純作業を家内は得意とし、それで(有り難いことに)かなり手間が省けたが、僕の名を切り刻む時に妻が見せた愉快(ゆかい)そうな表情が、印象に残った。

 さて、本日その困難なミッションを漸(ようや)くにして終えた。箒(ほうき)と塵(ちり)取(と)りを持ち込んで、滅多(めった)に無い(年に一度の)大掃除(おおそうじ)。僕の書斎は北西の端に有る。冬の間、西の窓から差し込む日差しは限られ、かなり寒い。お負けに狭くて、ストーブなど入れようものなら、火事の心配が有る。それで炬燵(こたつ)を入れた。然(しか)も、これが二つ目の机としての機能も果たす副作用が見込めた。一つの机を散らかし放題にしても、もう一方で読み書きが出来る、これは大変に便利だ、と僕は欣喜雀躍(きんきじゃくやく)、大いに喜んだものだ。
 だが、一人そこへ水を差した者が居(い)た。旧友H氏、自(みずか)らの経験からすると、軈(やが)て二つ共に散らかると。そして、この不吉な予言は(不幸にして)的中した。その時の氏の嫌味な表情を、僕は忘れない。
 だから、秋風が吹く頃、書斎が寒気と乱雑で耐え難くなると、僕は亡父の隠居(いんきょ)部屋(べや)へ引っ越すのが常だ。そこはガラス戸から差す秋の日が畳みの奥まで入り、窓際の日(ひ)溜(だ)まりに座(ざ)椅子(いす)を据(す)えると、中々(なかなか)に快適なのである。色付いた庭も、目に入る。だが、冬が迫るに従い、南隣りの家の陰が日差しを追って来る。この陰が座敷きへ入り込むと、日が翳(かげ)る。それで、いつも家内がパソ・コンに向かったり、ピアノを弾いたり、ステレオでCDを聞いたりする居間へ、冬期間お邪魔(じゃま)する仕儀(しぎ)となるのである。
 それが暫(しば)らく続き、軈(やが)て妻のヒスが住み分けを主張する頃、僕は重い腰を上げる丈の覚悟が出来る。即(すなわ)ち、今年のように地震で書斎の本棚が崩壊しなくとも、春に二つの机を片付けて書斎を開くのは、毎年恒例なのである。これを称して「書斎明け」。つゆ入り前の年中行事だ。今年の腰は例年以上に重かったけれども。

 この二月半の間に届いた郵便物を開封、目を通し、要らぬ頁(ぺージ)は真っ直ぐ屑籠へ、個人情報は切り取り、切り刻み、、、これを郵便物が届く度(たび)に励行することを、春毎(ごと)に誓(ちか)うのだが、中々(なかなか)、、、。かくして十日余りの悪戦苦闘は終わった。その象徴として、日捲りカレンダーを一気に大量に剥(は)がすのは、大いに痛快だった。苦難の果て、こんな快感がウクライナへも届くと良いのだが。
 作業中に五月十五日が来て、僕は居間で奥野修司著「ナツコ/沖縄密貿易の女王」を読んでいたが、今夕それを書斎で読み終えた。けさから雨が降って、肌寒いが、僕の城へ帰館して落ち着き、地震でスピーカーが落下した音響装置も復興して、モーツァルト作「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」など聞き乍ら。
 窓から見下ろすと、裏の鈴蘭(すずらん)は純白が黒ずみ、代わって花畑のコスモスが三つ四つ咲いた。それを眺(なが)める土手のベンチに就(つ)いては、その周辺だけ草を刈った。大きく刈り取れれば良いのだが、とてもとても、、、。
 書類を分別し処分する作業は、気が重かった。例えば、保険の証券など開くと、初めは良かれと思って契約したが、その後を知った今にして振り返ると、どうも必ずしも効果的でなかったりする。いや、評価が明確なら未だ良い。それを今後の判断に生かせる、と思えれば納得(なっとく)できるからだ。だが、この人生、そんなにキッパリ白黒が付くものじゃないから面倒(めんどう)なのだ。
 例えば、この土地を買い、家を建て、僕ら家族の一時代を築いた。ここの暮らしが果たして皆それぞれに幸せを齎(もたら)したのか。家庭に固有の思い出が醸(かも)されたこと丈は確かで、それが我が家のアイデンティティを成したのだろうが、、、権利書など引き出すと、そんな感慨に耽(ふけ)って、手が止まる。増して、亡父の遺言状など、言うまでも無い。曖(あい)昧(まい)模(も)糊(こ)として、答えが出ない人生。気分に靄(もや)が掛かって、スッキリしない。
 書斎の整理や書類の切り刻み等の合い間合い間に、チョコチョコっと花畑の草毟(むし)りやベンチ回りの草刈りにも手を出した。チョッと手を出しては、直ぐ切り上げた。又は、時々本を開き、原稿に手を入れる時間を挟むのも良い。但し、夢中になり過ぎるのは、禁物(きんもつ)。
 妻の忠告で、一つ事に根(こん)を詰(つ)めない。無味乾燥な仕事を継続する為(ため)の極意(ごくい)である。完全主義は、永い単純作業には不向きである。大概にすること。あっちこっち手を出すと、気分の転換にもなって、良い。
 更に、同時並行と云う作戦も有る。テレビを聞き乍ら、個人情報の紙片を裁断する。茶を啜(すす)り、CDを聞き乍ら、というのも結構。又、僕が廃棄の可否を判断し、家内が得意の切り刻み。即ち、分業も秘訣の一つであった。以上を要するに、まじめでないのが(良い加減が)宜(よろ)しいようで。
(日記より)

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