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【今でしょ!note#47】 社会保障制度の成り立ちと変遷 (1/3)

いかがお過ごしでしょうか。林でございます。

日本の大きな社会課題の一つである社会保障制度の成り立ちと現在に至る経緯について、厚生労働省のレポートをもとに全3回に渡りまとめておきます。
https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/11/dl/01-02.pdf


社会保障制度のざっくり変遷

日本の社会保障制度は、医療保険や年金保険に代表される保険の仕組みを用いた社会保険方式と、生活保護に代表される公費財源による公的扶助方式とに大別できます。
日本では、戦後復興期の一時期を除いて社会保険方式を中核として発展を遂げ、1961年にすべての国民が医療保険および年金による保障を受けられる「国民皆保険・皆年金」が実現しました。

国民皆保険・皆年金を中核とする日本の社会保障制度は 高度経済成長を背景に拡充を続け、1973年には「福祉元年」を迎えます。その後、「高齢化などへの対応をベースに今日まで当制度を維持するために様々な改革が行われてきた」とレポートにはありますが、高齢化自体はだいぶ前から予想できたもので、そもそも制度の維持を考えることが現代にはかなり難しくなっているのでは?と感じます。

1 国民皆保険の成り立ち

医療保険も年金も、戦前から存在しますが、工業化の進展に伴う労働問題の発生に対して、被用者保険を中心に制度化の動きが進んでいました。
1955年以降の高度経済成長を背景に日本型雇用慣行が定着し、社会保障の重点が戦後の「救貧」から「防貧」に転換します。

1955年ごろは、農家や自営業者を中心に国民の多くが医療保険制度や年金制度の対象ではありませんでしたが、1961年に地域保険にこれらの人を加入させることで国民皆保険が実現しました。
1973年には「福祉元年」として、老人医療費の無料化や、医療保険制度における高額医療費制度などが導入されます。

2 制度の見直し期

1975〜85年あたりの時代に入り、高度経済成長が終焉し経済の成長スピードが鈍化してくると「増税なき財政再建」への対応が課題となりました。将来の高齢社会に対応するために医療保険制度の1割自己負担、基礎年金制度の導入などの見直しが進められます。

1990年代前半のバブル崩壊後は、経済成長低迷が明瞭になり、企業経営が厳しさを増す中で、非正規労働者が増加し、日本型雇用慣行にも変化が生じます。介護保険制度の導入や、年金支給年齢の引き上げ、定年延長などが進められました。

3 超高齢社会の到来

その後、急速な少子高齢化の進展により、総人口の伸びは鈍化し、経済のグローバル化も進みました。格差の拡大やセーフティネット機能の低下も指摘され、2007年のリーマンショックでは、「派遣切り」といった非正規労働者の解雇、雇い止めが社会問題化しました。

発行済国債残高がGDPを大きく上回るなど国の財政は危機的状況となり、毎年1兆円を超える自然増が発生する社会保障関連の予算編成は一層厳しい状況に陥り、2007年からの5年間で1.1兆円の削減が求められました。

1-1 戦前の社会保障制度

ここから各フェーズの動きをもう少し細かく見ていきます。

世界初の社会保険は、ドイツで誕生しました。資本主義経済の発達に伴い深刻化した労働問題に対処するため、1883年に医療保険に相当する疫病保険法、1884年に労災保険に相当する災害保険法が制定されました。
日本では、1914年〜の第一次世界大戦をきっかけに空前の好景気を迎え、急速に工業化が進んだことから労働者数も大幅に増加します。その後、戦後恐慌を迎え大量の失業者が発生すると、労働運動が激化したことから、ドイツに倣う形で1922年に健康保険法が制定されました。

制度発足直後の被保険者数は、1926年で政府管掌健康保険が約 100 万人、組合管掌健康保険が約 80 万人と、限定的でした。その後、会社や銀行、商店で働く人、船員などを対象とする保険制度が制定されていき、戦時体制に移行する中で厚生省は、国民健康保険の一大普及計画を実施しました。
1945年には組合数10,345、被保険者数 4,092 万人となるものの、組合数の量的拡大は必ずしも質を伴うものでなく、戦局悪化により皆保険計画は予定通り進みませんでした。

また、戦時体制下、国防上の観点で物資の海上輸送を担う船員の確保が急務であったことから、船員を対象とする「船員保険制度」が 1939年に創設されます。
船員保険制度は、政府を保険者、船員法に定める船員を被保険者とし、年金保険制度のほか医療保険制度を兼ねた総合保険制度で、社会保険形式による日本最初の公的年金制度です。
その後、船員以外の被用者に対する公的年金制度の創設が検討され、1944年に厚生年金制度として設立されますが、背景として戦時の生産力拡大、労働力の増強確保のほか、インフレ防止の観点から保険料を納付させることによる強制貯蓄機能が期待されていました。

1-2 戦後の社会保障制度

戦後の日本は壊滅的な状況にあり、戦災により都市住宅の3分の1を焼失し、日本全体で工場設備や建物の4分の1を失いました。1945年の復員者及び失業者の推計は1,342万人(全労働者の30〜40%)に及び、生活困窮者が増大します。

そんな中、1946年に日本国憲法が公布され、第25条に「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」 と国の責務が明記され、新生活保護法や失業保険制度などの新たな制度が整備されていくことになります。

また、終戦直後のインフレの中、厚生年金保険料の負担も困難になったほか、積立金の実質的な価値が減少し、将来給付のための財源とならなくなってしまうという問題が生じていました。
保険料率の引き下げや年金支給開始年齢を55歳から60歳に引き上げるなどの改正が加えられ、現在の厚生年金制度の基本体系となる「新厚生年金制度」と呼ばれていました。

1-3 高度成長下での社会保障

高度経済成長が始まった1956年当初、医療保険制度の未適用者が 約2,871 万人(総人口の約32%)存在し、大企業労働者と零細企業労働者、 国民健康保険を設立している市町村とそれ以外の市町村住民間の「二重構造」が問題視されてきます。

また、1960年度に生活保護を受けた世帯のうち 55.4%は、世帯員の病気が原因であったことを踏まえ、医療保険未適用者の防貧対策として1961年に国民皆保険が実現しました。

医療保険が農民や自営業者を含め、先んじて国民の大多数をカバーし始めていたのに対し、年金制度は遅れていました。
一方で、高度成長により産業構造の急速な転換が行われ、農村部から都市部への急速な人口流入が進み就業者に占める雇用者割合が1959年には初めて5割を超える中、核家族化の進行で子の親に対する扶養意識も減衰してきたこともあり、国民年金導入の世論が盛り上がります。
老齢人口の割合も次第に増加傾向にあり、老齢者の生活保護を国が真剣に考えざるを得なくなったこともあり、国民皆保険と同時に国民皆年金が実現しました。

1-4 給付改善と「福祉元年」

1960年代に入ると、核家族化傾向の顕著化、老人に対する扶養意識の減退により、独り暮らし老人や寝たきり老人の問題が顕在化してきます。
その後1970年になると、日本は65 歳以上人口(当時は「老年人口」)比率が 7.1%となり、国連の定義にいう高齢化社会に入りました。

当時は一般的に高齢者は低収入で、年金制度も未成熟であったことから、老人医療費の無料化を求める世論が大きくなっていました。
また、1970年代に入ると経済成長の成果を国民福祉の充実に還元しようとする動きが高まり、「福祉元年」と呼ばれる1973年に老人医療費支給制度が制定され、高齢者の医療費負担が無料化されました。

当時から、無料化に対する反対論はあったものの、当時は層の厚い生産年齢人口に支えられており、かつ右肩上がりの高度経済成長が見込まれていたため、最終的には実行されることになります。
当時は、老齢年金受給者が少なく、支給されている年金額も少なかったため成立できていましたが、ご存じのように現在となっては、人口動態も変わり制度の前提条件が破綻しています。

次回は、「2 制度の見直し期」について、掘り下げていきます。

それでは、今日もよい1日をお過ごしください。
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